2003年11月08日

阿修羅ガール

舞城 王太郎 (著)
阿修羅ガール

cover

『煙か土か食い物』に対して福田和也がこんなことを言ってる。

やれやれ、また、奇天烈な書き手があらわれたもんだね。こいつは、とんでもない、ろくでもない、得体の知れない、厄介な代物だ。本格の仕掛けとゴンゾーな文体、ナメきった世界観と考え抜かれた構成。どっちにしたって救いのない世界での、見境のない馬鹿騒ぎと解決などありえない問いへの安っぽいけれど心情あふれるカタルシスがグッとくる。 やりやがった。 まったく楽しみな奴だよ。


福田和也のこの言葉が契機になったわけでもないだろうが、舞城王太郎という名前は、その後、推理小説という限られた世界から、文学界全般が注目する新生代の書き手の代表名として流布していく。そして、『熊の場所』で三島賞候補となり、ついにこの『阿修羅ガール』で三島賞を受賞。名実ともに、「今」を代表する作家へと駆け上がった。

衝撃的なデビュー作から舞城を追いかけている一ファンとしてはうれしい限りだ。僕は文学ももっと消費されなければならないと思っているから、舞城のような書き手が閉塞感のある文学界の突破口になって欲しいと心から思っている。

「文学界の閉塞感」という言葉を安易に使ったが、それは村上龍、村上春樹、高橋源一郎が70年代後半から80年代初頭にかけて登場し、新しい文学のモードというか、世界や社会と対峙する、再構成する新しい言葉を小説という形式に持ち込み、商業的にもある一つの成果を果たしたような、ブレークスルーが、90年代以降の文学界にはほとんど見られなかったということを意味している。一時期まではそこに確かなる息吹や世界を再構成する言葉がつまっていた詩は、今や完全に死につつあるし、小説界では島田雅彦が大江健三郎批判的な位置から登場したことと、保坂和志のような人がゆっくりとではあるけれど、着実に少しづつカチコチに「小説らしさ」みたいなものに染まりきってしまった小説界に風穴を開けてきた、といような小さな動きは見えたものの、ブレークスルーとなるような、ヘビー級のパンチを繰り出せる若手は登場していなかった。そこには、渋谷系などというラベルをはられて登場したえらく保守的な若い書き手や、今なお「小説」とはこうあるべきという前提を無意識に抱えて、感傷的なストーリーを書く作家たちがいるだけだった。(僕は阿部和重などの一部の若手が嫌いではなかった。いちおう現代に生きる人間として、「今」の作家がどのように世界を捉えようとしているのか、世界に向かおうとしているのかを知ろうと読み続けていた。中には純粋に面白いと思える作品もいくつかあったことは確かだ。しかし、阿部和重の「ニッポニアニッポン」を読んだとき、タブーとされていたテーマに挑むというようなことを、小説家としての矜持と考えているようなところが見えて、そういう態度もそもそもモードなんだということを自覚してるのか、この人は?と疑問に思い、それ以降はあまり彼らの書くものを熱心に読まなくなった。もしかしたら彼らが書いているのは、保坂和志が言うように、絵を描くのに「書かれた絵」を見て、描いている、というようなものなのかもしれない。)

舞城王太郎が面白いなと思うのは、彼のつむぎだす言葉に、確かに「今」の息吹が感じるからだ。現代に生きて、小説を書くというなかで、今が言葉を反映する、あるいは言葉が今をつくりだす、という感覚は軽視しちゃいけないはずだ。

「世界」とか「社会」とか、そういった大きな概念の言葉が嘘っぽく感じられてしまう「今」のなかで、それでも「今」をどうやったら言葉は捉えることができるのか、ということを考えることは小説家にとっては極めて重要な自覚ではないか。
そして、舞城の文体は、それが意図的なものであったとしても、どうやってもこのような文体からしか捉えきれない「今」をつかもうとしている。
知的遊戯としての「文学」ではなく、大衆とか、民衆とか、そういうところから湧き上がる力動が、舞城の文体にはあるんじゃないだろうか。なので、「阿修羅ガール」の最も優れた書評とは、「意味わかんないけど、すげー面白れー」というもので十分なはずだ。意味や解釈を求めなければ、文学や小説が成り立たないわけではないだろう。ここには明らかに「今」が見えるのだから。それで良いのではないか。

今日は会社の掃除で、休みなのに通常の出勤時間より早い時間に事務所に行く羽目になり、結局、午後3時過ぎまで束縛されてしまった。あー、原稿すすまねー。

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categories [ 読んだ本や雑誌 ] 2003/11/08 23:58