広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

広告都市・東京―その誕生と死

「社会」みたいに抽象的な概念。共同主観的概念として共有されている「気分」みたいなものの「リアリティ」。これらをどう言葉で捉えることができるのか?
椹木野衣は「ハウスミュージック」に、宮台真司は「コギャル」、そして東浩紀は「オタク」に。「現代社会」の典型的な、あるいは象徴的な構造やシステムを見出し、そして「この社会」における生き方の術を問う。
そして、北田氏は「広告」「メディア」「都市」といった極めて日常的空間にあるものから、それらの変容・変遷を追い、その下部システムを取り出し、今の「社会」の様相を語る。
ここには確かなリアリティがある。これほどまでに自分にとって”ぴったりとくる”社会システム論は読んだことがなくて、正直かなり驚いた。宮台真司や東浩紀といった先人のテクストを下敷きにしつつも、それを乗り越え、「90年代以降」の極めて現代的な「現代」を見事に描き出している。現代消費社会論、メディア論の傑作。


<80年代>の社会システムとリアリティ、不安
<80年代>的な広告=都市の論理とは、「秩序/無秩序」という二項的な解釈図式に「文化」という第三項を導入することであった(P.60)。<80年代>の広告=都市の論理的実践の顕著な例として、セゾン・グループが渋谷をパルコ自体の広告としてラッピングしてしまう戦略や、外部を一切隠蔽し、充足した内部世界を構築するディズニーランドなどが採りあげられる。すべてが「記号」によって覆われた街は、演劇舞台的な装置として機能する。「記号」には「外部」はなく、特権的な視点もなく、ただ表層を漂う「記号」だけが全てという論理が支配する。これらの実践は、ボードリヤールの「消費社会論」や、「記号論」などによっても強化され、<80年代>の社会規範・論理空間を形成していく。

<80年代>的論理空間においては、「記号化された商品を消費することによって自らのアイデンティティを模索していく」(P.83)という「私」を生み出し、それが<80年代>に生きる人々の「リアリティ」を形成していた。

<80年代>の都市遊歩者たちは脅迫的に都市を散策し、<自分らしさ>への息苦しい確信を築きあげていったのである。(P.102)

こういった「広告=都市」は、ミシェル・フーコーの「近代」の分析に倣って「パノプティコン的」と表現できる。それは「見られているかもしれない不安」だ。

空間を支配する者の姿が見えないにもかかわらず、いや見えないからこそ、人びとが「見られているかもしれない」という不安に捕らわれ、支配者の用意する<台本>を進んで受け入れていく


<ポスト80年代>とは
ところが、90年代以降、「「広告=都市」を支える<80年代>的な言説─実践システムが、ある種の臨界点を踏み越えて」しまった。(P.115)
それはセゾン・グループの失調や、ディズニーランドでは頑なに守られていた「外部世界を見せない」という論理が崩壊した「ディズニーシー」の登場、あるいは「渋谷」という町に対する人々のイメージの変遷(「文化」的イコンとしての「渋谷」から、単なるデータベース的情報の集積場としての「渋谷」へ)などから照らし出される。
<ポスト80年代>的な都市遊歩者を特徴づけるのは、「都市を文学作品やテレビドラマ(テクスト)のように「読む」のではなく、むしろCF(もっとも広告らしい広告)のように「見流す」という態度である。」(P.128)

では、<80年代>を支えていた「舞台性」──舞台において、役割を演じることによって保っていた「リアリティ」や「アイデンティティ」は、<ポスト80年代>において、どのように形成されるのであろうか?

<ポスト80年代>において、人々には「見られていないかもしれない不安」が生じているのではないかと、著者は問う。
「見られているかもしれない不安」から「見られていないかもしれない不安」への変遷を、著者は90年代半ば以降のメディア・コミュニケーションの環境の変化に見出す。
<80年代>までの世界を規定したマスメディア的論理空間では「送り手=公的な責任を持つ存在/受け手=指摘に解釈する存在」という役割区分が前提とされていた。
ところが、「見られていないかもしれない不安」を率直に表明するメディアであるウェブサイトにおいては、「送り手/受け手」という役割分担も、「公的/私的」という領域区分も完全に失効してしまっている」(P.142)

伝達される情報の意味やメッセージをフィルタリングしつつ公共空間を構築するというのが、マスメディア的な意味における「社会」の原理であるとするならば、接続指向のコミュニケーション空間における「社会」の原理は、首尾よくつながること、他者にちゃんと覗かれることである。(P.144)

コミュニケーションは、「情報内容の伝達」という側面から「コミュニケーション」自体を目的とする「接続指向のコミュニケーション」の側面が強化されていく。このような「社会」においては、人びとは「覗かれる」ことによって「リアリティ」や「アイデンティティ」を確認する。それは近代的メディアが支配していた価値規範の崩壊に対しする対抗策みたいなものなのだろうか?


自分がBLOGを続けている意味?

自分がBLOGを続けているのは何か?ということを考えるにあたり、「見られていないかもしれない不安」というのは一つのキーワードになりえるのではないかと思う。「手軽である」「ブロードバンド環境の充実」といった背景はもちろんあるのだろうが、しかし、自分がBLOGを続けている意味は多分そこではないような気がする。それは「とりあえずの理由」であり、根本的な理由はやはり「見られていないかもしれない不安」に突き動かされた自己確認行為なのではないかという気がする。(その意味では「ケータイ」のコンサマトリーな利用に飛びつけなかった人間が、BLOGというコミュニケーション・メディアに飛びついた、ということか?)
「気がする」というのもえらく他人事だが、自分自身の行為の意味を完全に理解している人などいない。「誰にかわからないけど、誰かに」「見られている」「覗かれている」ということが、自身のアイデンティティを確認する行為であり、現代における「リアリティ」獲得のための手段なのかもしれない。

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