2004年06月01日

「葉桜の季節に君を想うということ」

ミステリーでも特に推理小説と呼ばれるようなジャンルは、文学というカテゴリーではなぜか少し低いレベルで見られているんじゃないかと思うことがある。国語の教科書に推理小説が出てきたことはまずない(実は調べたことはないのでもしかしたらあるのかもしれないけど)。それは一部だけ切り取っても意味がないからという理由からだけではない。一部だけ切り取って意味があるのかないのかで言えば、普通に教科書に取り上げられる文学作品も一部を読んだり理解したりしたとしてもあまり意味はないのではないかと思う。せいぜいその小説に興味を持ったり、あまり必要もないレトリックを覚えたりするぐらいが関の山だろう。

推理小説がそのような扱いを受けるのはひとえに、その形式の特殊性ではないかと思う。推理小説においては事件の真相や真犯人といったものにすべての文学的な形式や環境が捧げられる。いかにして大胆なトリックを考え付くか。そのトリックを注意深い読者に気付かれずしのばせ、そして最後に華麗な解決につなげるか。これらがすべてといってもよく、主人公の内面や、作品におけるメッセージや意味といったものはほとんど無視される。(ちょっと語弊があるかもしれないけれど。もちろん推理小説にだってきちんと心情や内面や主義や主張を織り交ぜたものは多くある)

例えば、「純文学」では風景描写には、今の主人公の内面・心情が現されていたり、今後のストーリーの方向を示唆する気分的な意味が込められていたりするが(ってそういう小説の反動がポストモダン小説なんだろうけど)、推理小説では、それと同じような意味をもっている描写であっても、読み手からしてみればすべては何かしらのトリックの素材として機能しているのではないかという疑いの目で読まれる。当然ながら書き手もそういった読み手の自覚には神経を配り、何でもないことをさも意味ありげに書いて惑わせたり、あるいは物凄く重要なことを読者が見落とすように巧妙な策を講じたりということが繰り広げられる。

より重要そうな意味やメッセージみたいなものは、推理小説というジャンルでは「トリック」という大きな意味に格納されてしまいそこから抜け出せない。

というようなところが推理小説というジャンルが低くみられる要因なのではないか。しかし、考えてみれば、何か意味や真理みたなものが高尚なもので、それを文学という形式で表現することが価値あることだ、と考えること自体がおそろしく低俗だったりするのではないだろうか。
下手に「純文学」気取るよりは、推理小説という意味や真理を無効化するような制度と枠組みのなかで、書くことを真剣に考えている作家のほうが、かもすればよほど文学という表現形式であることに自覚的で意欲的かもしれない。

推理小説においては、文学という形式を選択することそのものが「トリック」を構成する要素になることがある。いや、ここ近年の本格派と呼ばれるような人達の書くものには、虚構内での環境・状況のみに依存したトリックから、小説であることや、小説としての手法や形式そのものをトリックとして利用するケースが多々見受けられるようになった。筒井康隆の「ロートレック荘殺人事件」、綾辻行人の「十角館の殺人」、貫井徳郎の「慟哭」など。また竹本健二をはじめとするメタ小説類なども推理小説という形式からの小説の存在根拠の問いかけをはらんでいると言えるだろう。これらの小説はおよそ映像化しようがない。小説であることそのものがトリックを構成する重要な要素となってしまっているからだ。

一人称で語るのか、三人称で語るのか、どのような語り口を選択するのか、会話文と地文の処理は? どう章を展開していくのかなどなど。小説におけるありとあらゆるものが、トリックのタネとして考察され利用される。それこそそのうち本に付く帯や表紙などもトリックの材料として使われだしかねない勢いだ(確か、綾辻の館シリーズの何かで、一部そういった実験的なトリックが使われていたものがあったことは記憶しているが、なんだったかは覚えていない)

推理小説はこういったある一点の真理のために全てが捧げられてしまうというそ特殊性が備わった文学だ。ある意味推理小説には「無駄」がまったくない。「無駄」もトリックの一要素として意味を持ち始める。これはすごく特殊な形式だなぁと思う。

葉桜の季節に君を想うということ
歌野 晶午

おすすめ平均
絶対にだまされます。
私もやられてしまいました!
素直な心で読めばダマされますが、「大仕掛け」以外の部分をむしろ評価したい

Amazonで詳しく見る4163217207

歌野晶午のこの小説はミステリーファンからはかなり高い評価を受けた作品のようだけれども、まさしく推理小説というジャンルの特殊性を全面的にトリックとして使ってしまおうという貪欲さが伺える作品だ。

歌野晶午という作家は実はデビュー作からの三部作しか読んでいない。少なくともデビューから三作品はいわゆる「新本格」の作品だったと思う。大胆なトリックを仕掛けること。読者との純粋な推理ゲーム。実は「長い家」も「白い家」もそんなに強い印象は残ってなくて、同時期に読んだものとしては綾辻の「館シリーズ」や、法月倫太郎の密室シリーズのほうがよほど面白かった印象がある。どうも歌野昌午は文章が下手という強い印象が残っていたりして、特に推理小説マニアでもないので追いかけてこなかった。
ここ最近のものを読んでいないのでなんともいえないけれども、この小説では明らかに小説が小説たらんとする前提を大きなトリックの素材として使っている。
これが「本格」なのか「邪道」なのかは置いておくとしても意欲的な試みであることは確かだろう。

ただ、正直読み終わっても「やられた」という感情は残るけれども、それ以上に強い空しさが残る。「犯人探し」=「真相探し」に費やされた読書体験・時間がほとんど意味のなきものとして貶められてしまう感覚を覚えるのだ。

「慟哭」を読み終わったときにも感じたことだけれども、これらレトリック・トリックは、確かに小説でしかできないことを突き詰めてはいるけれども、でもこれは小説ではなくもしかするとマジックとか、そういう違うジャンルのものと比べられるものになってしまってるんじゃないかという気がした。
もともと推理小説というジャンルが背負う閉塞感。それを打開しようという試みの一つとして生まれてきたのではないかと思われるレトリック・トリック。しかし、レトリック・トリックはますます推理小説の閉塞感を強めたような気がする。

[ TrackBack (5) ]

categories [ 読んだ本や雑誌 ] 2004/06/01 22:52