恒例、麻雀大会

昨日は恒例の新春麻雀大会だった。昨年は麻雀荘だったが、今年は直前にM氏の機転で急遽、大津の温泉旅館「紅葉亭」の麻雀部屋を借りてかなり優雅な麻雀大会となった。トータルで考えると雀荘よりもホテルのほうが安くついたというのもよかった。ボクも含めて、何人かは途中で温泉をたのしんだりして、いつもの麻雀とは大違いの、とても気分の良い麻雀だった。

10人だったので、2卓にわかれ、1卓は普通の東南戦、もう1卓はブー麻雀で戦った。ブーは大学の頃に先輩から教わって、学生の頃はよくやったけれど社会人になってからは初めてかもしれない。ブーにはローカルルールが多いようで、学生のときにやってた方法は3万点持ちの3万返し。ブーの条件は箱割れか、何点かに達したら(ルールを忘れてしまった)終了。確か東場だけの戦いで、終わった段階で3万点より浮いているか沈んでいるかでいわゆるブー特有の「マルA」や「2コロ」「1コロ」などがあるというようなものだった。
マルAならば沈んだ3人からはオール10点の30点のウマ。2コロなら1着10点、2着5点、3着-5点、4着-10点、1コロまらば1位7点、2位2点、3位1点、4位-10点、こういうウマをつけて、得点計算自体は通常と同じように行う、というようなやり方だったと思う。
阿佐田哲也の「麻雀放浪記」の2巻で関西に繰り出した坊や哲がブー麻雀に挑戦するが、こちらで描かれるブー麻雀のほうが、本来の麻雀に近いルールのようではある。


“麻雀放浪記(二) 風雲編 角川文庫 緑 459-52” (阿佐田 哲也)

今回とったルールは8000点持ち。16000点超えか箱割れで終了。その時点で何人浮いてるかでチップ。マルAならは2枚づつのトップ6枚。2コロなら沈んだ2人がチップ1枚づつのトップ2枚。1コロならチップ1枚がトップ、というルール。一発や裏ドラはなく赤5などもなし(今回はそもそも入ってなかったけど)。皆がルールやポイントを理解してやると、ブーのほうが駆け引きは多いしスリルがあって面白い。

さて、大会の方は、いつもは予選、決勝みたいなことをするのだが、今年はひたすら打ちまくってトータル点数でいいんじゃない、というかなりアバウトなものになった。たんに面倒くさかっただけだけど。過去2回のトーナメント戦ではボクは予選を突破したことが一度もなくて、いつも決勝卓を横目に敗者たちが好きに楽しむ卓で、なぜか大勝ちする、というチグハグなことを2年連続続けていた。
今年は、ブーにせよ東南戦にせよ、かなりツイていて、沈むときは最小限、勝つときは大勝ちということで、結果的にはトータルでトップということになった。当然だけで勝てた日というのは気分がいい。単純なもので。めったに勝つこともないので、こういう日があってもいいだろう。新年早々ついている。


“Aクラス麻雀 (双葉文庫)” (阿佐田 哲也)

麻雀のノウハウ本みたいなのは、近代麻雀とか現代麻雀だとか、ああいうところでちょくちょく拾い読みはしてるけれど、あんまりきちんと読んだことがない。だから、他の本がどうかもよくわからないし、内容も今の麻雀に通用するようなものなのかもわからない。
ただ、阿佐田哲也が好きなので手にしたのだが、この本から受けた影響はけっこう大きい。
降りる時のコツ(字牌の暗刻などを持ってたら、それを3枚落とすとか)、トイツ場とシュンツ場の見極め方とか、3色-一通の同時性だとかという、いわゆる基本と言われるような麻雀のセオリー的なこともこの本で知った。

手元にないので正確には覚えてないけれど、冒頭のほうで、麻雀における運のとりあいという要素について語っていて、それがすごく面白かった覚えがある。最初は均等にある運にどんどん偏りができていくのはなぜか? 単に運と運のぶつかり合いのなかで、少しでも自分の方に運を向ける努力とは? それを具体的な戦局を例に語っていて、その観点はすごく新鮮だった。
科学的に考えたら「運」のやりとりとか「流れ」とか、そんなもんがあるわけでもなく、麻雀はゲームとしては毎回毎回リセットしてやり直してるのだから1回、1回のゲームに繫がりなどあるかい、となるんだろうが、しかしなぜか実際「流れ」とか「運」とかそういうものを確かに感じることが麻雀にはある。ちょっとしたことから流れが変わって、とたんに配牌が良くなり、簡単にペンチャンやカンチャンをツモれるようになったり、他者がテンパイしても普通に打ってて当たり牌をつかまない、当たり牌を捨てないですんでしまう、なんということが何局か続く。

麻雀が他のゲームより圧倒的に面白いのは、ここの部分なんじゃないかと思う。運のやりとりが楽しめて、弱くても運を見方に勝てるチャンスがある。麻雀のゲームの許容力みたいなものだ。将棋とか囲碁なんかは、もちろんあるレベルに達すればボクレベルにはわからないような「運」の駆け引きもあるのかもしれないけれど、しかし、一般素人のレベルでは、基本的には運の要素はほとんどない。強い人が強く、弱い人間が強い人間と戦って勝てることはまずない。麻雀は違う。4人でやるということもあるけれど弱くても強い人に勝つことは多々ある。

ついでに、桜井章一、通称雀鬼、この人のことは正直、ボクはかなり誤解していた。第一打の字牌切り禁止だとか聴牌までのドラ切り禁止みたいな特殊な制約を科して行われるいわゆる雀鬼流といわれる打ち方や、20年間無敗とか代打ちとか、あやしさムンムンの経歴、さらには20年無敗ったって戦いの殆どはイカサマ勝負だったりとかという疑問とか。「地運」だとか「天運」なんていう桜井語。正直言うと、なんか胡散臭い。麻雀に「運」が大きく左右することは自分でもそうだと思いながら、「天運」とか「地運」なんて言葉で語られると、とたんに胡散臭くなるというか、どうしてもオカルティズムっぽくて敬遠してしまっていたのだ。

が、この本を読んで、ボクの桜井章一観はすっかり変わってしまった。最初の1〜2巻は雀鬼流特有の流儀や考え方などが中心なのだが、途中から実際に若手の雀士の実践を例に、この場面では何がわかるのか、何を意識してどう牌を処理するべきか、相手の手をどう読むべきかということを、こと細かに解説してくれる。


“雀鬼サマへの道 1 (1) (近代麻雀コミックス)” (谷口 亜夢)

この漫画を読んで桜井章一って人は実は、ものすごくロジカルな人なんだなと思った。読みだとか流れだとかを考えていくうえで、もちろん完全に科学的なんてことはありえないけれど、思考方法はすごくきちんとしている。全然オカルトでもなく、麻雀のセオリーに乗っ取りつつ、局の状況や相手の状態、流れから1手を選びとっている。言ってることの1つ1つがよく理解できる。

逆に驚いたのは1手、1手の局面で、本書で雀鬼が説明してくれるようなことをほんとにすべて一瞬で考えているとしたら、それは恐ろしいことだ。そりゃ強いわけだなと。プロの棋士なんかは一瞬でものすごい手順を読んで、そのなかで良さそうな方向性を瞬時に選別するけれど、桜井章一なんかは麻雀の世界でもそういうことを普通にやっているわけだ。プロならば当然なのかもしれないけれど、ボクは驚いた。自分の麻雀なんてほんと運だけにまかせて、自分の牌とツモ牌だけ見て、来た来なかったに一喜一憂しているレベル。同じゲームをしてても、これだけ深く考えることができるということを知って、さらに麻雀の深さというか魅力が増した気がする。

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