三崎 亜記「バスジャック」/ビートたけし, 村上 隆「ツーアート」


“バスジャック (集英社文庫)” (三崎 亜記)
デビュー作「となり町戦争」では周囲が絶賛するほどに、その凄さがよくわからなかったのだが、あいかわらずこの人の小説は評価が高そうで、またまた手にとってしまった。
当初は、内田百間(正確な「ケン」という字が使えないのは悲しいことだ)や川上弘美などの流れをより批評的に受け継ぐ作家なのかなと思っていたのだけれど、なるほど、この短編集を読んで、この人は星新一や阿刀田高といったブラックユーモアをベースとしたわかりやすい大衆小説の書き手なのだなということに気づいた。(ちなみに悪い意味ではない。ボクは星新一も阿刀田高も中学、高校生とどっぷりはまってて、好きな作家達の1人である)

一番最初の短編「二階扉」などは、出だしはカフカ的な不条理と、その状況を当たり前のように受け入れる主人公という構成で始まるのではあるがきちんとオチがつく。このオチの付き方にあれ?と正直思ったのだ。表題作「バスジャック」も一種の不条理SFだがきちんとオチがあるのだ。
それが巧いかどうかは別なのだが、オチがつくことでとてもわかりやすくなっていることは間違いない。不条理性そのものを世界の批評やメタフィクションとしての批評として展開は、読者に含ませるところが大きいし、その不条理さこそを楽しめないと小説としての楽しみがないが、本編に収録されている短編には、ほぼすべて「オチ」の意外性と完結性によってストーリー小説としてきちんと「完成」させるというわかりやすさがある。星新一や阿刀田高に近い系統を持ってる人なんじゃないかなと思ったのはこういうところから。

ボクなんかはひねくれものなので、内田百間や川上弘美、カフカのように、その不条理性やわからなさ、異常なものが異常なままに放り出されるような不安感をあおられたりするようなもの方が好みで、安易なわかりやすさよりもわからないものの方が好きなのだが、一般的にはきちんとストーリーがあるもののほうが好まれるのだろうか。この人が純文学作家としてウケるのは、こういうところにあるのかもしれない。


“ツーアート (光文社知恵の森文庫)” (ビートたけし, 村上 隆)

ビートたけしと村上隆という日本を代表する二大芸術家の対談というか往復書簡、エッセイのようなもの。掲げられるテーマに対して一方が自身の思っていることを語り、それに一方が答えつつも自身の考えを披露していく。
村上隆の方は、アートを戦略的、マーケティング的に捉えてるのに対して、ビートたけしはアートが持つ神秘性や高貴さみたいなものを鼻で笑いアートなんてたいしたことねーよ、というアートの権威批判的な立場をとってる。が、実はそういう態度をとるビートたけしのほうが、アートの権威性みたいなものにすがりたくてて、村上隆のほうが実は覚めているんじゃないかという気がしないでもない。
お互いの視点は同じ方向を向いているようではあるけれど、それを見ている立脚点は微妙にズレていて、そのズレを互いの「遠慮」で多い隠しているような、若干、そんな掻痒感がするやりとりだ。

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