努力とか頑張るとか

私は努力してますとか、私は頑張ってます、みたいな発言は、その本人が言うとけっこう恥ずかしいものがある。
「努力」とか「頑張る」ってのは、今現在の自分(の能力)よりも少し背伸びして苦手なことや、出来ないこと、普段ならやらないことに取り組んだりというニュアンスが含まれている。この「今現在の自分」という基準はあくまでもその人の基準・条件でしかない。

例えば、ボクは見知らぬ人に会って話をしたりするのが嫌いだし苦手なのだが、仕事上そんなことは言っておれず、というかむしろそのへんのことをやらなければいけない立場にあったりもする。なので嫌々でも無理をして知らない人が集まる場に出向いたり、意識的に人脈を広げていくみたいな活動をしたりする。これは自分にとってみれば「頑張」ってるし、「努力」していることになるかもしれない。

が、こんなことは当たり前のように、意識もせず、苦手でもなく出来る人はたくさんいる。そして、そんな人から見れば、ボクの「頑張り」や「努力」なんて屁みたいなものだろう。そんなことは「頑張ってる」とは言わないと怒られそうだ。そんなことのどこが「努力」なのか「頑張ってる」のか、その人たちには理解できないだろう。

でも、逆にボクは何の意識もせずに出来るこで、他の人にとってそれを行うにはすごく大変なことってのもあるだろう。そういうものはボクなんかが見たら、そんなことに「頑張る」なんて大げさな…と思うに違いない。多分今までもそういう態度をとってるだろうと思う。(で、誤解されたりするんだろうけど)

つまり、「頑張る」とか「努力」ってことの大部分は、今の自分の能力だとか才能だとか、そういうものが基準にあるわけで、その基準は絶対的な基準じゃないから、本人がどんなに頑張ってるとか、努力してると思ってても傍から見たら、なんじゃそれ?となることがありえるわけだ。
だから、自分で「努力してる」とか「頑張ってる」なんてことをアピールするのはあまりよろしくない。少なくとも格好良くはない。

そういえば、長嶋茂雄が「努力してますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルといえない。」なんて、かなりまともなことを云ってた(と記憶しているが)。
(とか言いながら、調べてみると一方では、「挫折してもプライドは失わない、それは努力しているからだ。」なんてことも云ってて、なんじゃそりゃという感じだけど。)

長嶋さんの発言の裏側には、プロは結果がすべてだから頑張ってるとかいくら練習したとかそういうものは意味がない、みたいなニュアンスも含まれてるんだろう。確かにそうだと思うところもあるけど、この発言に全面的に同意できるわけでもない。

こういう発言から極端に解釈していくと、すぐに成果主義に行き着いてしまいそうだけれど。ボク自身は成果主義ってのは、全面的には賛成できないところがある。と、成果主義だ、能力主義の話になると、ややこしいので、そこには踏み込まないが、どっちにせよ「頑張ってる」とか「努力している」なんてのは、周りから云われてなんぼだということだ。

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