見られていないかもしれない不安

北田暁大は「広告都市・東京─その誕生と死」の中で、90年代半ば以降のメディア・コミュニケーション環境の変化によって、人々の意識は、「見られているかもしれない不安」から「見られていないかもしれない不安」へ偏移したのではないかと指摘した。

見られていないかもしれない不安」。この屈折した自己表現、自己表出。
決して「見られたい」わけでもない。注目されたいわけではない。でも、誰かに見てもらいたい。誰にも見られていないということが不安を駆り立てる。

ブログやtwitterやmixiの日記やらといったものは、全部「見られていないかもしれない不安」を紛らわすためのものなのだろうと思う。

なぜ、「独り言」をわざわざ、人に見える場に公開するのか?
たとえ、mixiで友だち限定にしていても、twitterでプライベートメッセージにしていても、誰かに見てもらうために人が呟いたり、日記を書いたりしているには違いない。
しかし、「誰か」に見てもらうことを期待しながらも、そのコミュニケーションは決して、誰かと議論を交わしたいわけでも意見を交換したいわけでもない。メッセージや発言は、本来、誰かにその内容・内実を届けようという意志があるのだろうが、「見られていないかもしれない不安」を基礎して発されるメッセージには「何か」を「誰か」に伝えようという意志はない。そういう発言が目に触れればよくて、それ以上のものを求めていない。
メッセージを発すること自体が目的であるコンサマトリーなコミュニケーション。






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