神はダイスを遊ばない

神はダイスを遊ばない

神はダイスを遊ばない

年末も近いということで、20冊ほど、本を仕入れてきた。年末年始は比較的まとめた時間をとれるので本を読むにはちょうど良いのだ。で、そのなかの一冊がこれ。なぜかボクは年末になると阿佐田哲也の「麻雀放浪記」やらの「ギャンブル小説」が読みたくなる。年末年始には必ずといっていいほど麻雀かオイチョカブをやっていたから、なんとなく「年末年始=博打」という結びつきがボクんなかにできあがってしまってるんだろう。

森巣博のことをは全く知らなかったのだけれど、帯に踊る「阿佐田哲也を越える賭博文学の最高峰」なんていう言葉につられて買ってしまった。
帰りに喫茶店に寄って、手持ち無沙汰なので読み始めたら、とまらなくなって、結局最後まで読んでしまった。(年始用のギャンブル小説をまた買ってこなくては….)

この本を読んで驚いたのは、語り口がいわゆる「小説」してないことなのですね。確かに、これは「ジャンル超越」文学です。著者は、本書を「ファクション Faction」だと定義している。全部が全部「ファクト(fact=事実)」の羅列でもなく、かといって「フィクション(fiction=作り話)」でもない。「無境界」に位置すると。

ボクは「小説」だと思って読み始めたのだけれど、途端に「あれれれ」と肩透かしをくらった。(ということが、いかに「小説」ってものが「小説らしさ」みたいな制度に束縛されているのかといことをよくあらわしているなぁ…)

なるほど「ファクション」とは確かに。

物語は、著者自身と思われる主人公が美人ディーラーと出会って、美人ディーラーと共に、大博打に挑む、っていうような単純なものなのだけど、寄り道、回り道、脱線が繰り返されて、それが面白い。むしろ脱線こそが本書の魅力。(このあたりは、田中小実昌とか小島信夫にも通じるところがあるんじゃないかなぁと)

カシノ(森巣博は「カジノ」とは言わない)世界の話に始まり、博打とは何か、博打における心構えが語られるのは、「賭博文学」だから当たり前なのだろうけど、持って来る引用や喩えが、聖書から漢書、平家物語から西行、フロイト、ミシェル・フーコーとおろしく幅広く、それがまた面白い。絶妙なのだ。
そして、著者の興味、関心は博打のことに留まらず、オーストラリアの文化と日本文化の比較がでてきたり、資本主義とななんぞやと問いはじめたりと、その興味や関心の領域の広さと脱線の面白さに、読むことを中断することができなくなる。すごい筆力だ。

阿佐田哲也はギャンブルを通じて社会の縮図を描いたなんてことを言う人もいるけれども、ボクは、阿佐田哲也はギャンブルのギャンブルたる魅力を、文章という全く違う表現形式で表現してみせた、ということが凄いと思っている。坊や哲や、ドサ健の生き方を、サラリーマン金太郎よろしく「参考にする」ことなんて、えらくしょーむない読み方じゃないだろうか。小説の面白さをわざわざ何か別のものに還元する必要もない。(もちろん、とはいっても阿佐田哲也の小説には明らかに生きることへの教訓が多分に含まれていて、ボクもその影響を少なからず受けているのだけれど)

本書は阿佐田哲也とはまったく逆で、むしろ脱線で語られる薀蓄やトリビアが面白い。それはギャンブル小説が持つ高揚感とか、興奮とは少し違う。

なので、「阿佐田哲也を超えた」というのは正しくないだろう。むしろ、良くも悪くも、ギャンブル小説の潮流が阿佐田哲也という巨人の影響を受けずにおれないところに、その影響は随所に受けながらも、それを消化、吸収し、独自の文体、語り口を生み出し、新しい文学の可能性を切り開いた、というところこそが評価されるべきではないかと思う。

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コメント

  1. tentomushi より:

    はじめまして。
    なにやら面白そうな本ですね。
    読んでみようと思います!
    トップのスパムらしきコメントのおかげでここに辿りつけたかと思うと、不思議な気持です。

  2. ゆで麺 より:

    コメントありがとうございます。
    スパムのおかげで過去記事がトップページにあがってきたというわけですね。

    森巣さん面白いですよ。
    他にも何冊か読みましたが、ボクは「神はダイス~」が一番面白かったです。

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