郵便的不安たち#

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存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」が徹底的な知的緊張感を保つ言説によって構成された、ある意味純粋なテクストであるとするなら(「コンスタティヴ」>「パフォーマティヴ」)、本書しかり、「網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ」に納められたような講演やワークショップ、はたまた、「はてなダイアリー」や「hirokiazuma.com」といったウェブサイトを中心とするインターネットメディアでの活動は、いかにして断片化してしまった小さな共同体間を超越するかというメディア戦略(「コンスタティヴ」<「パフォーマティヴ」)を前提としたテクストと捉えることができるのではないかと思う。

「パフォーマティブ」な効果を狙うためには、カテゴリー横断的な思考が必要だろうし、テクストの意味的濃度・密度を意図的に下げるということも必要だろう。
ということで、本書ではアニメから文芸批評、状況論と、極めて幅広い領域、分野を扱いつつも、そこには一貫して、80年代、90年代以降の、東さんの言葉を借りれば「ますます徹底化しているポストモダン」という社会・文化状況を前提とした分析、批評がなされている。

この試みはおそらく成功していると思う。僕のような素人でも本書を読むとポストモダンの閉塞感を理解し、そこで生きるための「作法」(宮台真司さんが言うような意味での「作法」ではなく)を断片をつかむことができるからだ。(できるように思えてしまう…)
東さんが言う「上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」というのは、極めて抽象的ではあるけれども、「1枚のコインの裏表」である本書と「存在論的、郵便的」を読むことで、これらのテクストが確実に自分の中の言語(象徴界的機能としての言語)を揺るがされているような気がする。

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