キャラクター小説の作り方
「小説の書き方」の本ではあるのだけれど、どちらかというと、いわゆる「スニーカー文庫のような小説」の執筆者、それに関わる編集者や出版社へ、自分達の小説ジャンルの可能性や課題に自覚を持ちましょうよ、という呼びかけのようにも思える。
著者は「スニーカー文庫のような小説」を日本の自然主義的な小説の流れと比較して、リアリズムの問題について語る。
日本で日本語によって書かれている小説の大半は「自然主義」的な考え方を当然のように採用していて、あまりにも当然のことすぎて誰も気にもとめませんでした。
その中にあって数少ない例外が「スニーカー文庫のような小説」なのです。
自然主義的な小説は、「現実」を「写生」する。そこには必ず現実の人間や肉体を考え方の基準にしているわけだけれども、「スニーカー文庫のような小説」においては、その出自から「現実」というものを「写生」の対象にしていない。「スニーカー文庫のような小説」はアニメやコミックなどの虚構を写生する小説であり、そもそも「小説」が自明的に持っている作法や枠組みから逸脱しているというわけだ。
これは「スニーカー文庫のような小説」の一つの可能性でもあり、また、課題でもある。しかし、「スニーカー文庫のような小説」の書き手も含め、そのことを自覚していない人達がこの業界には多すぎる、ということを問題だと語る。
自然主義的な小説の始まりとして、田山花袋の「蒲団」はよくとりあげられるが、著者はこの小説が新しい時代の始まりにおいて、「新しい現実」を捉えるために「言文一致」が必要であったという構図を見出す。
この構図は、柄谷行人が「日本近代文学の起源」で語ったこととほぼ同じだと思う。(手元に本書がないので、なんて言ってたか正確には覚えていないのだけど)
柄谷も「風景」や「内面」といったものが、文学を通じて発見された(つくりあげられた)というようなことを確か語っていた。
著者が分析している点で、非常に面白かったのは、「芳子」が「私」を獲得しようと必死に「作家」に手紙を送る時、その文章は「言文一致」で書かれるのに対して、夢破れ、帰京して遣す手紙は「候文」で書かれ、そこには「私」は存在しない、という指摘だ。
「私」という仮構を見出すためには、「文学」が必要だったわけだ。
■キャラクター小説の書き方
キャラクター小説の書き方としての実用的な部分では、「テーブルトークRPG」で特訓する方法や、キャラクターの設定方法なども語られているが、僕が個人的に面白かったは、「お話の法則を探す」という章だ。
アメリカの民俗学者アラン・ダンデスの「民話の構造」を下敷きにして語っているのだけど、これは「面白い話」をつくる方法としてはいろいろつかえる。
「面白い話」には次のような構造がある。
- 何かが欠けている
- 課題が示されている
- 課題の解決
- 欠けていたものがちゃんとある状態になる
サンドイッチの具の例
- <欠乏><欠乏の解消>
- <禁止>と<違反>
- <欺瞞>と<成功>
- <脱出の試み>
「年収900万円!!ラクラク儲けるインターネット通販―だれでも毎日が給料日」では、ストーリーの作り方を、
- 問題(お客の疑問・悩み、文章の論点)
- 事例(体験から得た解決策・方法論)
- 意見(専門家から見た問題の結論)
この順番は、「おもしろい話」の構造と同じだ。「問題」では「お客の疑問・悩み」に焦点を絞る。そこれは「何かが欠けている状態」と同じだろう。