日本辺境論
「日本辺境論」
内田さんは多作なので、全部追いきれてないのだけれど、「下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち」を読んでからは立て続けに何冊か読んできた。
内田さんの物の見方や捉え方、思考プロセスはすごく面白く、「世間一般」の尺度とは全然違う、内田視点が持ち込まれていて面白い。
本書は、そんな内田さんが「日本人」とは何ものなのかという問題について正面から切り込んだ傑作だ。他の内田さんの書籍も面白いけれど、彼の独自の切り口やスタイルを知るならば、まずは本書をオススメする。
前半は、日本人とはどういう人間なのかということを、梅棹忠夫や丸山眞男、川島武宜ら知識人の「日本人観」を下敷きにしつつ、歴史を紐解きながら論じていて、言わば、日本人の器質性、メンタリティの総括となっている。
内田さんは、日本人を「辺境人」であると結論付ける。
辺境人とは何か、どんな存在なのかということを本書から得た自分の理解から整理してみるとこんな感じの意味になる。
辺境人とは、ある中心に対して、常にその周辺/周縁としてしか世界を構築できないような存在だ。たとえ、自身が中心だというような認識を持っていたとしても、その「中心」は、そもそも「それ以前に」存在した中心と周辺の関係を逆転させただけのものに過ぎない。本来、「中心」とは、何者にも先駆けて、自明的に存在するものであり、何かと対比したり倒置したりという関係から超越してこそ「中心」となる。
「中心」とは、何かその外部に正しさを保証するものがあるわけでもなく、「中心」であること、そのものの内において正しさを作り出して行く存在だ。
しかし、そういう何者にも先行されない「中心」という存在に、日本はかつてなったことはないし、なろうとしたこともない。日本人は、ある巨大な中心に対して、それに追いつけ追い越そうとする周辺として自国を布置してきたけれど、そして追いつき、追い越した途端に、思考停止に追い込まれてしまう。なぜなら周辺=日本人のアイデンティティであるから、目指すものになったとたん、それは日本人であること自体を拒絶してしまうという矛盾。こういったメンタリティを「辺境人」という言葉で言い表している。日本人って、他の国がどうだとか、あそこは良いとか悪いとかって、とにかく「他国」を引き合いに出してくることが好きな国民だと思っていたけど、それがまさに辺境人のメンタリティなんだろう。「外部にある『世界標準』に準拠してしか思考できない私たち」といような言葉が出てくるけど、まさにぴったりだ。
丸山が言う「きょろきょろ」という擬態もまさにこれ以上うまくは表現できないのではないかというぐらい簡潔に僕らのメンタリティを言い当てている。きょろきょろという言葉には、日本人が持つアイデンティティの不確かさや不安感と、常に外部の目を気にしながらでしか、自分を描けない弱さ、そして節操のなさが的確に表現されている。
この「日本人」ってのを、自分に置き換えて読んでみても、ハッとさせられるというか、うーん、確かにそうだなと思うところが多々ある。自分の意思や主張という前に、何か先立つ規範や事例や言葉や環境がなければ不安なのだ。そんなことは他に言う人はいない考える人はいないけれど、それでも自分はこう思うんだ、ああ思うんだというような態度や意思を僕自身が獲得できてるか。できてない。規範や模範やモデルやらは、常に「外部」の「正しかろう」的なものに依拠しながら、そこへの同調や批判という形でしか、意思を持てない。僕だってきょろきょろばかりしてるわけだ。
そもそも、日本人ぐらい日本人とは何なのかを自問する国民は他にないそうだ。
近い話としては、血液型の性格診断みたいなものも、日本人ぐらい好きな国民はいないみたいだけど、それは結局、自分が何者であるかを自分では決められないというところに繋がってるんだろう。自分の性格も血液型からあなたはこういう人間ですよと言われて、初めてなるほど自分はこうなんだと考える。本来、自己とか自我とかが確立していれば、そんな必要はないはずなのだけれど。
本書の真骨頂は、中盤以降からにある。じゃぁこんな「日本人」をどうやって肯定するか、辺境人って意外と悪くないんだよ、というところで内田さん独特のロジックが展開されていく。日本人=辺境人の特徴や特性を強みとして活かす戦略。
この辺は「下流志向」や、他のいくつかの内田さんの書籍でも展開されている主張でもあるが、それは端的に言ってしまえば、辺境人の気質は、最も「学ぶ」ということの本質に対して親和性が高いのだ、ということだ。
学ぶという行為は、本質的には、その学んでいるものが何かに役に立つのかということを学ぶ以前には知り得ないという非対称性を持っている。
学ぶことによって、今、学んでいることの本質や内容を理解できるわけで、学ぶ以前には学ぶ中身の是非を判断できない。だからこそ学ぶ。
よく内田さんが持ち出す例は「師匠と弟子」の話で、弟子はどの師匠に付くのが良いのかどうかを学ぶ以前に判断できない。判断できる能力や知識がないからこそ、弟子は師匠を支持するのだ、みたいなことだ。
こういうった学ぶということの本質の前において、辺境人としてきょろきょろと不安にかられながらも外部の正しかろうものを吸収していけるメンタリティや中央や中心に対して常に時間的な遅れを経験し、その遅れを取り戻さんと必死にそのものの内実や本質を問わずがむしゃらに摂取して突き進むという性質、これらは極めて効率的な学びのシステムを作り出しているのだと、内田さんは主張する。
大学のシラバスは欧米的な教育思想の産物で、「学び始める前に、これから学ぶことの意味や有用性について初心者にもわかるように」書かれている。内田さんは、このような考え方に立ったら本来の学びは成立しないと考えているけれど、欧米的=中央・中心人(辺境人に対して)においては、これが当たり前のメンタルモデルとして成立してしまう。学ぶ前に学びの内容や適性を吟味したりするから効率も悪いし、こういう態度においては知的ブレークスルーというのは起きにくい。
多分、これは学びに対して無防備に愚鈍に直感に従い吸収するからこそ、そこには本人が理解しえなかった世界や見えなかったものに出くわす可能性があるけれど、学びの前に、その内容を吟味して適性さを判断してたら、そういう知的ダイナミズムが起こりにくいんじゃないかという意味だと自分は理解した。
ものを学ぼうとしている人に、「就いて学ぶべき師を正しく選択できるように、師たちを客観的に適性に格付けできる予備能力」を要求したらどうなるでしょう。そんな予備能力を要求されたら、私たちは一生学び始めることができないでしょう。学び始めるためには、「なんだかわからないけど、この人についていこう」という清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だからです。そして、この予備的な考査抜きで、いきなり「清水の舞台から飛び降りる覚悟」を持つことについては、私たち日本人はどうやら例外的な才能に恵まれている。
本来、学びとは、学ぶによって得られるメリットや便益によってインセンティブを高めて誘うものではなく、この「清水の舞台から飛び降りる覚悟」のように、何かわからない、それがメリットになるのか、学ぶことで良いことがあるのかどうかもよくわからないけれど、それでも、学ぶことが死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうというまったく根拠のない「先駆的な確信」によって促されなければならない。
しかし、昨今の日本では、この学びの本質を理解せぬ教育施策が実施されていき、人が学ぶために最も重要なこの「先駆的な確信」を得る力が弱体化してる。日本という辺境の小国が、列国に対抗して生き延びていくのに「学ぶ」といことは最大の国力だったものが低下してきてる。学ぶ力の喪失は、辺境の伝統の喪失であると、内田さんは主張する。
欧米などの諸外国に較べて、日本人の辺境人的なメンタリティは、どうしても卑下してしまうものになるけれど(というこの態度や、「諸外国に較べて〜」という形でしか、自らのメンタリティを示せないところがまさに辺境人気質なんだろう)、そこには他がやろうと思ってもできなかった、優れたシステムを生み出すための素地があったというのは面白い指摘だと思う。
あとがきで内田さん自身が岸田秀さんの「内的自己/外的自己」という心理学的なアプローチ日本を論じる手法に影響を受けたと書いている。岸田さんは開国以降の日本を一人の精神病患者の成長過程、疾病進行過程として論じたが、内田さんはそこから一歩踏み込んで、じゃあこの日本人の疾病に対して、日本人は逆に何を得たのかを考えた。岸田さんはあくまでも「日本人」としてのメタ認知を得ることによって、日本人が内包する疾病を少しでも緩和しょうというアプローチだったかもしれないが、内田さんはこの疾病を肯定的に日本人の強みとして捉えなおしている。
しかし、その強みはいまや失われようとしている。これは何か他に資源を持たない日本にとってはかなり由々しき事態なのかもしれない。このあたりの社会システムやその問題点、どのように解消していくのかということは、「下流志向」(「papativa.jp – 下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち」)で詳しく論じられている。
コメント
新書大賞受賞 内田樹 『日本辺境論』の内容紹介...
専門はフランス現代思想ですが、専門にとらわれず教育論など多くの著作がある内田樹(たつる)氏であるが、この度、この『日本辺境論』で新書大賞を受賞したようです。 新書大賞の詳細はコチラ。 新書大賞〈2010〉 「はじめに」で内田樹(たつる)氏は、この『日本辺境論』は「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論は澤庵禅師(たくあんぜんじ)からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売りであり、ほとんど新味がないとしています。 しかし、僕にとって丸山眞男 は馴染み深いものでありますが、澤庵...