糸井重里さんの「インターネット的」を読み返した。きっかけはTwitterで本書の中の一節が流れてきたことだった。どこかで見たことがあるなと思って、ググってみたら「インターネット的」の中の言葉だということがわかった。
「インターネット的」は2001年7月に上梓された本で、たぶん、僕はすぐに買って読んでるのだけれど、全然覚えてなかった。最初に読んだときは、それはそれで面白かったはずなのだけれど、今、読み返すと、面白いや興味深いを超えて、感動を覚えた。今だからこそ、読み返すと、ここで語られてたことがすごくしっくりとくる。ほんとに素晴らしい本だと思う。
2001年といえば何があったと年だろうか。
この年は4月に小泉純一郎が首相に就任している。そう。9月にはあのアメリカ同時多発テロが発生した年だ。
調べて始めてわかったけど、初代のiPodが発売されたのも、この年の10月のことだ。
ネットやインターネット業界を見てみるとどうだろうか。
ちょうどネットバブル崩壊が2000年〜2001年の頃だろうか。光通信株の大暴落や米ナスダックが史上最大の暴落など、順風満帆に見えたIT、ネット事業の脆弱さが露呈した頃だ。サイバーエージェント社や楽天の上場は2000年だ。
当然、mixiもgreeもTwitterもまだない。「ブログ」の先駆けであったBloggerは当時すでにあったものの、MovableTypeの誕生が2001年10月であり、まだ本格的なブログブームの到来ではない。ようやく海外で「ブログ」ってのが人気らしい、え、それ日記とどう違うんだ、みたいな議論がなされていた時代だ。ソーシャルネットワークや、ソーシャルメディア、CGMみたいな言葉もまだない。
という時代背景から考えて、改めて本書を読むと、いかにこの本が時代を先取りしていたかがわかる。
ここで語られてることの多くが、その後のネットの大きな潮流となり、今や当たり前になりつつ概念だったりする。まるで「予言の書」だ。
たとえば、糸井さんは「インターネット的」な世界観や考え方の特徴的なものとして、次の3つをあげている。
1.リンク
2.シェア
3.フラット
今、聞いたら当たり前のように聞こえるけれども、特に「シェア」なんてのは当時は、まだきちんとその可能性について把握されてはいなかっただろう。
「シェア」について、糸井さんはそれを「おすそわけ」という独特の表現に置き換えて次のように語っている。
家庭料理というのは、インターネットにとても向いている情報だと思いますね。(略)
肉じゃがの上手な主婦がいたとしたら、そのレシピを無料で、おすそわけすることが可能ですよね。(略)
で、おすそわけしてもらった人は、どうするのがイイのか、と言えば、シェアしてもらったことに対して、“ありがとう”と思えばいいんです。(略)
何よりもおいしい肉じゃがを自分もつくれば、それが一番のお礼なんです。そしたら、最初にシェアした肉じゃがの得意な主婦も、次のシェアをする気になるでしょう。誰でも、誰かのお役に立つってことは、とてもうれしいことなのですから。
さて、さらに、です。“ありがとう”の代わりに、“では、わたしも別のレシピをシェアしましょう。みなさんに、“配りますよ”となる場合もありますよね。シェアとリンクとが、絡みあっていくわけです。何とも快適な連鎖講座負うができていきます。(略)
実は、情報はたくさん出した人おところにドッと集まってくるんだ、という法則があるのです。もらってばかりいる人は、いつまでたっても「少しもらう」ことを続けることになります。おすそわけをたくさんしている人や企業には、「これも、あなたが配ってください」という新しい情報が集まる交差点のようになっていきます。
モノもコトも、情報のかたまりですから、これは新しい意味での生産手段を手に入れたのと同じことになります。また、配られた人は、この人や企業のシェアしてくれるものは信頼できると思ったら、その次の情報を待ちますから、そこには不定形な市場もふくられている可能性があります。
すでにこの頃「クックバッド」は存在してはいたものの、それが今ほどの規模や可能性を秘めたサービスだと考えている人はほとんどいなかっただろう。糸井さんでここで思い描いているものは、まさにその後の、CGMやWeb2.0などの言葉で言われるようなユーザー同士が「おすそわけ」をする場やサービスが盛り上がっていくということの可能性を完全に見抜いている。
ただ、もっと重要なのことは、単に、「CGMは凄い」というようなビジネスやサービスモデルだけで切り取って考えるのではなく、「おすそわけ」というものがインターネットの本質であり、それが人々の気持ちや生活をよりよくしていくために大事なものなんだ、という前提にしっかり立っているということだ。
僕がこの本を読んで感動したのは、単に時代を先取りしていたからではない。
この本には、よりよい社会や世界とは何だろう?という糸井さんなりの疑問や解釈がある。「インターネット的」なものは、もしかしたらこの社会や世界をもっと良いところにしてくれる可能性があるんじゃないだろうか?という可能性が語られている。僕はそこに感動したのだ。
ビジネス利用における可能性や、アトムに対してのビット/デジタルの社会へのインパクトや生活変化、技術確信によるライフスタイルの進化みたいなものは、数多くの本で語られているけれど、インターネットを「インターネット的」なモノやコトとして捉え直して、そこに人の幸せとか、良い社会とは?ということを語った本は、そんなに多くはないのではないか。
この考えは、序文にある「インターネットそのものが偉いわけではない。インターネットは人と人をつなげるわけですから、豊かになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう思っているのかによるのだ」という一節に集約されている。
ここで言う「豊かさ」は、お金の多寡ではない。心や精神的な豊かさだ。それも無理をせず、ルサンチマンに陥ることもなく、ただ自然に開放的な「豊かさ」のことだ。「インターネット的」なモノやコトが、こういった「豊かさ」につながる可能性を秘めてるんじゃないだろうか。糸井さんは、そこにインターネットの可能性を視ているのだ。
本書の終盤で、糸井さんは「消費のクリエイティブ」の重要性を説明している。
今までのクリエイティブというのは、主に作る側、つまり生産側のことばかりが重視されていた。
しかし、実はそれに見合った消費の方のクリエイティブ力は全然育ってなくて、むしろ弱っていってるんではないかと疑問を投げかける。そのままだと、インターネットも生産のための、ビジネスのための便利な道具として使われいくだけで、イコールそれは、ただ生産を増やすだけだけれど、いくら生産が増えたところで、消費する市場がそれに見合った力をもってなかったら無駄なんじゃないか。
それではいくらインターネットで生産が豊かになったところで生活は豊かにはならない。
ここで言う「消費」というのは、単にモノを買うとか得るという意味ではない。それは「生活」をどう消費するか=享受するか=愉しむかということだ。たくさんのお金を得ても、「高級スポーツカー」や「億ションと言われる住居」「おねーちゃんと呼ばれる恋人」の「リッチのセットメニュー」みたいなものしか求められないというのは切ない、と糸井さんは言う。こういった借り物のお仕着せではなく、想像性だとか心の愉しさだとか感動だとか、そういうものをきちんと消費できるようにならないといけない。
そして、この「消費のクリエイティブ」の能力は、何か比較するもの並べ置いて、そちらを貶す、落とし込むというようなことをやっていては鍛えられない。そういうやり方ではなく、そのものをあるがままに、それそのものとして認める、褒めること。これを続けていくことが「消費のクリエイティブ」力を鍛えることになるだろうと説いている。
ここには「パソコン」や「デジタル」や「インターネット」といったものは登場しない。
あるのは、「インターネット的」なものが広がる世界において、人はどのように生きるべきか、社会はどのようにあるべきかという糸井さんならではの考え方だけだ。でも、ここから考え始めないと実は、何も始まらないのかもしれない。
ネットの仕事に身を置きながら、本書で語られるような意味での「インターネット的」なものを真剣に考えたことがあったかというと、たぶん、ほとんどなかったと思う。本書を最初に読んだときも、たぶん、そういうところがスッポリ抜け落ちてしまったのだろう。今、改めて本書を読み返してみて、もう一度、「インターネット的」であることの根本から、しっかり自分なりに考えてみようと思う。
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