「さよならもいわずに」辛すぎる作品。
「さよならもいわずに」─ じーんと胸の奥に響くような悲しみに襲われた。この漫画は大傑作だと思う。最愛の人を亡くすことの辛さや絶望がこれほどまでに滲み出た作品があっただろうか。
この作品は、突然最愛の妻を亡くした、著者自身の私小説ならぬ、私漫画だ。物語はたった1年を描いているに過ぎない。しかも、大部分は妻の死の前後1ヶ月の事実を描いている。妻の死を親戚や親類に伝え、葬儀の段取りが始まり、葬儀、そして火葬、喪中葉書の手配、四十九日の香典処理。ドラマチックな物語や劇的な結末があるわけではないけれども、こうした場面の一つ一つに妻の影、妻との思い出、妻の不在が浮かびあがっては消えていく。忙しさの中に巻き込まれているときには一時忘れられていた感情も、ふと時間が開いたり、手持ち無沙汰になると、突然怒涛の悲しみが押し寄せ、胸を締め付ける。漫画家だからこそ、漫画で出来る表現、漫画でしかできない表現の追求。さまざまな漫画表現が駆使されているが、それらも単なる技工やテクニックにとどまることなく、著者がいかに妻を愛していたのか、その妻を亡くした悲しみがいかに深いのか、を一層効果的に伝える。
この漫画を読んで、ボクは上野顕太郎と熊谷守一が重なって見えた。
熊谷守一の作品に「陽の死んだ日」という有名な絵がある。次男「陽」を肺炎で亡くした守一が、陽の亡骸を描いた作品だ。息子を亡くして悲しいと絶望に襲われながらも、陽の亡骸を描かずにいられなかった守一。守一は正真正銘、生粋の表現者であった。
上野顕太郎もまた生粋の正真正銘の表現者だ。表現者とは、どんな状況であろうと、どんな心境であろうと、それをどのように表現すれば伝わるのかを考えてしまう人種だ。たとえ、それが自分の身に振りかかる災難だろうが、悲劇であろうが、それを「ネタ」として扱わざるをえない。
著者自身がこう書いている。
ただそれでも「描かずにはいられなかった」わけだが、ではそれは何故か?
「自分の思いを誰かに知ってもらいたかった」ということに、尽きるのではないだろうか。
辛い目にあった人々は多かれ少なかれ、「誰かに話を聞いてもらいたい」とか、
「気持ちを分かってもらいたい」と、思うようだ。
まして自分は表現者だ、これを描かずにいられるだろうか。
いや、あえて俗っぽく言うなら、
表現者にとって「おいしいネタ」を描かぬ手はない。
最後の一言に、表現者としての矜持が詰まっている。自分の身に起きた不幸・絶望でさえも、「おいしいネタ」と思い、それを表現せずにはいられない。この一言が不謹慎に響かないのは、この作品が「おいしいネタ」をまさに一級の作品に仕立て上げることに成功しているからだ。
コメント
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