ソーシャル・ネットワークの感想

Socialnetwork 先週「ソーシャル・ネットワーク」見てきた。忘れないうちに感想。
あまり期待してなかったけど、これが意外と面白かった。なんといってもザッカーバーグだ。ストーリーから読み解けば、自分の周りの人間との関係をうまく保てないザッカーバーグが、リアルな人間関係を補完、補強するような世界最大のソーシャルネットワークを生み出すという皮肉みたいなものも込められているのかもしれないが、そんな皮肉よりも何よりも、この映画の魅力はザッカーバーグのキャラクターに尽きるのではないかと思う。

映画の冒頭はザッカーバーグとその彼女との会話から始まる。凄まじい早口で彼女の気に触ることを口走ってしまうザッカーバーグ。普通の人ならばそんなことを口走ったら彼女がぶち切れるだろうということは容易に察することができるはずだがザッカーバーグにはそれが理解できない。完全に愛想を尽かす彼女に対して、ザッカーバーグは執拗に食い下がる。ほとんどの人が、このシーンのザッカーバーグを見て、あれ?と思ったはずだ。ボクは、この冒頭のシーンを見て、ザッカーバーグはアスペルガー症候群なんではないかと疑った。アスペルガー症候群かどうかは置いておいても、この冒頭シーンがこの映画のザッカーバーグのキャラクターをほぼ決定づけている。

ザッカーバーグは、彼女にふられた腹いせに大学寮のサーバにクラッキングして女子学生の写真を取得。どちらが美人かを比較して評価するような下衆なウェブサイトを一晩のうちに立ち上げる。ここでも彼は自分がしていることによってどんな被害がもたらされるのか、どんな事態が起きるのかということを一向に気にしない。ザッカーバーグぐらい頭の回転が早い、天才なら、そんなことをすればどうなるかぐらいは考えればすぐにわかるはずだが、彼はそういったことをまったく気にしない。いや、「気にできない」というべきか。どうなるかは理解しててもそれで自分がやってることを止めることができないのだ。

その後、映画は、フェイスブックの起ち上げから100万人突破までの物語を、ウィンクルボス兄弟や、共同創設者のドゥアルド・サベリンとの訴訟の公聴会のやり取りから描いていくわけだけれど、どちらの問題も、結局のところ、ザッカーバーグ自らが引き起こしてる問題であり、それは冒頭シーンでの彼女を怒らせたのと殆ど同じ理由だったりする。自分の発言や自分の行動、行為によって相手がどう思うかということに対してザッカーバーグはあまりにも無頓着なのだ。しかし、ザッカーバーグ本人には、それが自分が引き起こしている問題だという自覚がない。だから自分を訴えている相手の怒りが理解できない。

公聴会での態度や主張などでもあらわな通り、彼はまったく人の話や考えを受け付けない。それらは無頓着さや豪快さの裏返しのようなものではなく、単にそれが理解できない、そういう感情が理解できない風で描かれる。ドゥアルド・サベリンとの確執にしたって、普通の人なら多少なりとも心に負い目を感じるか、あるいはもっと開き直るか、いずれにしてももう少し感情面の揺れや動きが描かれてもおかしくはないだろう。しかし、ザッカーバーグは、決して、相手の気持ちや感情を察して自身の心が揺らいだり、動揺したりすることがない。ザッカーバーグの心がかき乱されるのは相手の主張していることが理解できないからだ。自分の発言や行為によって引き起こされてる問題にも、彼にとっては相手がなぜ、そんなことを感じるのか、なぜそんなことを主張するのかがわからない。そして憤り、声を荒らげて反論する。

ラスト間際。サベリンがフェイスブックのオフィスに訪れて、自分が一枚食わされたことを知り、激怒しザッカーバーグに歩み寄る。そしてザッカーバーグのキーボードを地面に叩きつけるシーン。あのシーンでのザッカーバーグの表情が強烈に印象に残っている。怒りをダイレクトに顕わにするサベリンに対して、ザッカーバーグはなんとも言えない複雑な表情を浮かべるだけだ。その表情には、自分が悪いことをしたというような罪悪感もなければ、反省の色も殆ど見られない。その表情にはただ「困惑」だけが浮かぶ。

アスペルガー症候群に詳しいわけでもないけれど、文献で読んだり、人に聞いたりしてる症状には近いのではないかと感じた。気になって、家に帰って調べてみたら、同じように感じた人もけっこういたようだ。

Twitter / @町山智浩: あの映画ではザッカーバーグはアスペルガーとして描かれ …
気ままにブログ : ソーシャル・ネットワーク (ザッカーバーグはアスペルガー症候群?)

ザッカーバーグ本人がアスペルガー症候群かどうかはわからないが、少なくとも映画の中のザッカーバーグは、意図的にアスペルガーの症候群として描かれたようだ。が、これがこの映画の魅力をより引き立てる結果となったと思う。単なる天才や裏切り者という分かりやすいレッテルではなく、相手の情緒や機微を理解できない独特のキャラクターを持った主人公であるからこそ、単なる成功譚、アメリカンドリームとしてではない良い意味での後味の悪さを残すことができたのではないかと思う。後味は悪いのに、妙に納得できてしまうストーリーというのも珍しい。

また、この映画で描かれたようなことは、規模は違えど、実はちょっと昔の日本のベンチャーでもいっぱいあったことで、ボク個人としては、あぁどこかで見た光景だなと少し懐かしくも感じた。創業当時の株の配分をあまりにも適当に決めてしまったが故に、上場前に大変な思いをしたという会社は数多くあるはずだし、ナップスターのシェーン・パーカーみたいな山師にまんまと言いくるめられて、自分たちが考えてた路線とはまったく違う路線に突き進んでいったベンチャーも少なくはなかった。(それが駄目という意味ではなく。) 

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コメント

  1. [...] This post was mentioned on Twitter by shoichiro kimura, 蔵守 康由(Yasu.Kuramori). 蔵守 康由(Yasu.Kuramori) said: Reading:ソーシャル・ネットワークの感想 - papativa.jp http://t.co/SdKBUSt [...]

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