チャーミングな老夫婦のドキュメンタリー。「ハーブ&ドロシー」
映画自体を観たのは少し前のことなのだけれど、この作品はどうしても紹介しておきたいなと思っていた。
まだ観てない人は、どこかで上映されて観る機会を得たならば、絶対に観ておいたほうがいい。自信を持ってオススメしたい。きっと何か感じ入るところがある映画だと思う。ありきたりな言葉になってしまうけれども、生きることの意味とか、幸せとか、人生の豊かさとか、そういうものがどういうことなのかということを考えずにはいられなくなる作品だ。かといって教条的かというと全然そんなことはない。ハーブとドロシーの夫妻はとにかくチャーミングで、この夫婦の姿を見てるだけで暖かい気持ちになる。そして、この二人の考え方や生き方には多くの人が胸を打たれるはずだ。
「ハーブ&ドロシー」は、ニューヨークで慎ましく暮らすある一組の老夫婦を追ったドキュメンタリー映画だ。
小さなアパートメントで暮らすどこにでもいそうな、この老夫婦(ハーブ&ドロシー)は、実は、現代アートのコレクターとしては知らないものがいない有名人。アートの収集なんて世界は、庶民とはかけ離れた世界のように思えるけれども、ハーブ&ドロシーは、ごく普通の庶民の暮らしの中、普通の人々と変わらない給与で、少しづつ少しづつ作品を買い集めた。そして、結果、そのコレクションは、現代アートを語る上で欠かせないような重要な作品を数多く含む、とてつもなく貴重なものになっていた。
驚くのは、作品の購入をはじめてから今日にいたるまで、購入した作品を一品も売っていないということだ。たまたまあるいは目が利いて、有名になる前のアーチストの作品を安くで購入し後でその作品にとんでもない値段がついて大金持ちになる、みたいなサクセスストーリーはありがちだ。そうやってアート購入の元資金を稼いで、新しい作品を購入していくというような、一種の財テクや投資的な匂いのする話もアート界には普通に転がってそうな話ではある。
しかし、ハーブ&ドロシーはまったく違う。彼らは作品を愛して、自身のコレクションを愛してる。コレクションの中の1つの作品を売ることは、彼らにとっては、1つの絵画のある部分だけを切り取って売るようなものだと言う。
途中、ハーブ&ドロシーの兄弟姉妹へのインタビューで率直な感想が漏れる。「彼らが持っている作品の1つでも売れば、私たちよりも十分に裕福な暮らしが出来たのに」(うろ覚えなので正確ではないかもしれないけれど、こういう感じのことを語っていた)。
確かに、ハーブとドロシーの暮らしぶりはお世辞にも裕福とは言えない。彼らが暮らすアパートは小さく狭く、そこに膨大なアート作品がスペースを占拠する。作品の保管や鑑賞にもどう考えても向いてるとは言えない。決してお金持ちではない。むしろ、客観的に見れば、「貧乏」という言葉のほうがしっくり来るだろう。
しかし、ハーブ&ドロシーの心は豊かだ。給料のほとんどはアート作品の購入にあてる。その作品が世間的にどうか、今後、そのアーチストが有名になるのかどうか、なんていうことはまったく気にかけない。自分が気に入るかどうか。好きかどうか。好きなものには愛情を注ぐ。ただそれだけだ。結果的に、そのコレクションは何億、何十億という価値を持つものになっていたわけだけれども、そういった貨幣価値に換算することそのもことに、この夫婦は無関心だ。むしろ、彼らにとっては、良い作品に出会うこと、好きな作品を手に入れること、自分たちが情熱を注ぐ作品に囲まれて暮らすこと、その暮らしを何十年も変わらず続けていること、そちらの方がよほど重要なことなのだ。だから、コレクションを売ってお金を得ようという発想がまったくない。
何より彼らの最大の幸せとは、そこまで情熱を注げる共通の趣味が持てたということ、その趣味に対してのスタンスや心情が完全に一致していたということなのではないかと思う。ここに彼らの人生の豊かさみたいなものや、幸せというものがあるように思える。これはほんとに奇跡的なことだ。どちらもが作品を愛し、作品をわが子のように思い、たとえ小さな1DKのボロアパート住まいであっても、作品に取り囲まれてる生活が幸せだなんて、なかなかそうはいかない。
彼らが夫婦であり、二人一緒で、この生活を、この信条を、この姿勢を、貫きとせてきた、そのことにボクらは憧れを抱くのだ。
もう1つこの映画を観ていて、深い共感を覚えたことは、「意味がない」とか「意味がわからない」ということへの肯定だ。この夫妻が収集するような現代アート作品は特にそうだろうが、ある人から観れば、まったく意味不明だ。壁に釘で小さな布ひもを打ち付けただけのものがアートになったりする。ある人は「これがアート?」と些か冷笑気味に問いかける。こんなものが何の役立つの? 何の意味があるの?
でも、ハーブとドロシーは、そんな声にまったく意に介さない。好きか嫌いか。意味なんてものはわからなくても、なんか良いな、なんか面白いな、ただそれだけ。それでいいじゃないかと「意味がわからない」ことを肯定する
ボクらは、いつも意味を追い求める。小説を読めば、その小説の意味はなんなのか、テーマは何なのか。この映画は何を語っているのか、このストーリーはどんな意味があるのか。この絵画にはこういう意味がある、こういう背景がある。
意味は、たいていの場合、その表面に見える、表現されるものの後ろに、より重要そうにあると思われる「何か」だ。その「何か」が解ることが重要だし、その「何か」がわからなければ、作品を理解できない、理解できなければ面白くない、そんな風に無意識に捉えてしまっている。
しかし、本当にそうだろうか。意味なんてわからくても、意味なんてなくても、それがなんなのか、なんでそんな気持ちやそんな感情にさせるのかがわからなくても、何かいいもの、というのはあるのだ。その何かいいものに、無理に理由や意義を当てはめる必要はない。説明を付け加える必要はない。何かいいものは、ただそれだけで、何かいいものだ。
二人が、なんのてらいもなく、さもそれが当たり前かのように、そんな風に語る姿に、ボクは純粋にかっこいいと思ったし、全面的に同意したいと思った。
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