「ポトスライムの舟」(津村 記久子)
「ポトスライムの舟 」
はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る
これは石川啄木の有名な歌だけれども、この小説で描かれてる世界はこれに近いといえば近い。
ただ、決定的に違うのは、「ポトスライムの舟 」には悲哀や悲壮感みたいながないものがないということだ。
啄木の歌にはこの苦しい生活や、この生活を強いる社会、あるいはこんな生活を送りながら浪費的な生活をやめられない自分への嘆きが込められているのだけれど、この小説にはそういう響きはほとんど感じない。爪に火を灯す生活ではあるけれど、悲壮感を煽り立てたりということもない。また、こういう生活からなんとしてでも脱出したい、這い上がりたいというような強い意思もない。かといって、後ろ向きで諦めているわけでもない。
これが自分たちの日常であり、これが続いていくんだろう、これを受け入れようというような自然な態度がたんたんと綴られていく。だから、「世界一周旅行」と自身の年収がほぼ同額である発見からお金を貯めようという意気込みはあるが、そこには絶対的にそこに向かって邁進するのだという強い意思はなく、その目標は、一種、生活にリズムを作ることや、延々と続いていく生活の中でなんとはなしに見つけ出した愉しみであり、ゲームみたいなものとして捉えられているのだろう。
「安いコップに差して水を替えてるだけ」なのに、「まったく萎れる様子が」ないポトスライムが「なんだかんだと生きていける」ということの象徴なのだろうか。
扱ってるテーマというか状況は暗くて重苦しいのかもしれないけど、そこに深刻さを帯びさせないようにしようというのが、作者の意図なんだろうと思う。本来この小説の主人公の「ナガセ」は、そのまま一人称の「ワタシ/私」などに置き換えても、ほとんど不都合がないのだろうけれど、あえて三人称を採用してるのも、主人公視点からだけ日常を捉えてしまえば、どうしてもそこに悲壮感や悲哀が生まれてしまうからだろう。