芥川賞二作品を読んで
何かと話題だった今回の芥川賞受賞作二作品を読んだ。まったくタイプの違う作品で、「共喰い」が文学の「ド直球」だとすれば、「道化師の蝶」は「ド変化球」というべきだろうか。どちらも小説好きならかなり愉しめる作品だと思う。
田中慎弥さん「共喰い」の第一印象は、大江健三郎に憧れながら、それを乗り越えようともがき苦しんでいた初期の中上健次だ。田中さんはこれをあえて意識的にやっている。中上健次などの王道が好きな人なら必ず唸るんじゃないだろうか。川辺の部落の閉塞感。連鎖していくグロテスクなイメージ。そして暴力。エディプスコンプレックスの克服などの古典的なモチーフをてらいもなく持ってこれるところもある意味強いというか、やっぱり自信があるからだろう。すごく文学的で古典的な臭いすら感じるけど、こういう小説は最近読んでなかったのでなんか新鮮だった。実際、小説の技工としては、かなり高いレベルに達していると思う。職人技のような感じで、うまいなーというため息が漏れそうになる。田中さんの自信満々のあの発言は、自身の作品の揺ぎない自信に支えられているのだろう。
円城さんは他の作品も好きで読んでいる。田中さんが文学的な修辞の極地を目指してるとするならば、円城さんは「修辞」そのものを捉まえることを試みているのだろうか。「ド変化球」であるがゆえに、逆に、現代の文学のおいては「ど真ん中」を行ってるとも言える少し不思議な作品だ。一時期の筒井の実験小説を思わせるような作風で、最近の作家の中ではけっこう好んで読んでいる方かもしれない。
「道化師の蝶」からは、少し長いけど次の箇所を引用しておく。円城さんが求めたもの、「道化の蝶」がまさに、次の箇所で語られているような「意味のない」「相矛盾」し、「脈略さえも無茶苦茶」だけれども文学としては成立しているような、そんな言葉だったのではないか。
意味のない、相矛盾する、脈絡さえも無茶苦茶なお話がそこにあるとする。でもこの世の中のどこかには、そんな無理無体なお話を整合的に成り立たせる言葉があったりしないだろうか。翻訳してみてそれはありきたりのお話となり、どこがおかしいのかが隠蔽される。
別に難しく考えなくとも、日常の会話にはそんな要素が多くある。互いの話は聞いていないし、前言は容易く翻されて、間投詞や相槌が盛んに割り込み、反復が多く行われる。わたしたちは流れの中でそれを会話として捉えているが、音をそのまま文学に起こして定着すると、何が言われているのかわからなくなる。
(略)
次の文は嘘を言っている。前文は真実を言っている。この二文を読み流して問題はなく、生真面目に見つめるならば何かが起こる。次の文が嘘を言うなら、次の文は、前の文は嘘を言っていると主張していることになり、前の文が嘘を言っているなら、その主張は次の文が真実を言うとなり、次の文は、前の文は嘘を言っているとなる。
でもしかし、そこでの矛盾の解消やら生成やらを、単語で行わなければいけないという決まりはない。そんな事態が文法的に解消されたり生成されたりする言葉というのはないものだろうか。
繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というのはないものだろうか。
単に気がついていないだけということは。
流れが尾を噛み輪になれば、それはもう流れではななくなるだろう。