「紫の牛」を売れ!
セス・ゴーディングの新刊だ。
「紫の牛」とは「PURPLE COW」、つまり、「常識破り」な製品のことだ。セスは「紫の牛」こそがマーケティングの4Pに新たに加わる「P」だと言う。
いまや誰も製品や広告に注意を払わない。これは「パーミッションマーケティング」の時からのセスの一貫した主張だ。そんな世界におけるマーケティングは単に製品を売る、販売するというものではなく、製品そのものに人々の注意を集め、話題を起こさせるような「常識破り」のものがなければならない。
製品のマーケティングの成功そのものを製品自体に組み込む、市場中心のデザインである。
[略]
製品を考案し、デザインし、それに影響を及ぼし、状況にあわせて調整し、最終的に破棄することができないマーケターは、もはやマーケターとは言えない。ただの、でくのぼうだ。(P.130)
「マスマーケティング時代」ではアーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティーをターゲットとしていた。「キャズム」ではイノベーターやアーリー・アドプターと、アーリー・マジョリティの間にある溝をどう乗り越えるかということがテーマになっていたわけだけれど、(ちなみに、このキャズムの考え方だけれども、「製品ライフサイクル」理論では、市場シェア10%前後の頃に、プラトー現象という頭打ちの状態がある。ボクは「キャズム」と「プラトー現象」は多分同じものだと思うんだけど。違うかいな?)
キャズムを乗り越えて、マジョリティに製品が受け入れられるようになると、企業は莫大な利益を得ることができる。
こういう考え方の場合、マジョリティに価値があると考えてしまいがちだれけれども、セスは、価値が高いのは、イノベーターやアーリー・アドプターだという。彼らに注目され、熱狂的に愛され、口コミが誘発されるような「常識破り」なものを生み出さなきゃ、「キャズム」を超えることはできないよ、というわけだ。
イノベーターやアーリー・アドプターに注目されようと思えば、大多数(マジョリティ)が受け入れるような「安全で一般的な製品」「誰もが可もなく不可もなく」というような凡庸な製品をつくっていてはダメというわけ。
セスの主張自体は、「パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ」に初めて出会ったときの驚きみたいなものはなかったけど、それなりに面白く楽しめた。
この人の本には事例が豊富なのと、レトリックが独特の毒を持ってる。「パーミッションマーケティング」だって、根本はダイレクトマーケティングなわけだけど、語り口が過激なんで、注目を浴びたといえる。
そう、その意味ではセスはセス自身、セスの書くものがすべて「紫の牛」なわけだね。
セスは「パーミッションマーケティング」や「バイラルマーケティング」にかなり注目が集まっていたけど、「セス・ゴーディンの生き残るだけなんてつまらない!―「ズーム」と進化がビジネスの未来を拓く」はそれほど話題にならなかった気がする。
でも、ボクは「ズーム」が一番面白かった。特に会社経営やマネジメントに携わっている人なら、一読をオススメしやす。
コメント
>いまや誰も製品や広告に注意を払わない。
勇気を持って言うならこれは大いに反論します。「広告」のくくり方が問題ですが・・・
>彼らに注目され、熱狂的に愛され、口コミが誘発されるような「常識破り」なものを生み出さなきゃ、「キャズム」を超えることはできないよ
これは同感。
僕は今、本を書くとすれば「パーミッションマーケティングの限界」という題名で書きたい。
現場で感じるんだなあ・・・実際。
しかしpapativaさんの文章はわかりやすい。
いつも勉強になります。
コメントありがとうございます。
実はボクも「誰も広告に注意を払わない」ってのには疑問だったりします^^; セスの主張は極端ですけど、その「極端ぶり」が人々の関心を集めるのかなぁとか思ってますけど。
よく1日に何千もの広告を浴びせられている消費者は、広告に注意を払わないって言うけど、これもレトリックのような気がします。
「注目しなくても」いろんな場面で広告に接触していることは、生活者に何かしらの影響をあたえているでしょうし。
でも、目立とう目立とうとする広告がどんどん目立たなくなるってのはありますね。これって一種の「囚人のジレンマ」でしょうか。
「パーミッションマーケティングの限界」っていいですね。売れそう^^;
「パーミッションマーケティング」で一番大変なのは、本当の意味でのパーミッションを集めることで、それはそう簡単には集まらないですよね。「本当の意味でのパーミッション」って、すでに忠誠心ですし。
「紫の牛」を売れ!
かなり過激なタイトルのマーケティング本です。デジカメもオタク市場から成長して今が