思わず唸った「光圀伝」(冲方丁)

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光圀伝

思わず唸った。この小説はほんとに凄まじい。著者渾身の一作。この小説を傑作と言わずして何が傑作だろうか。絶対読んどいた損はないと思う。以下には多少ネタばれ要素があるので注意。

前作の「天地明察 」は、そのテーマの面白さ、そして安井算哲という人物の清々しさ、それを支える妻をはじめとする周りの人々の魅力。読みながら何度も胸が熱くなった。読後感も実に爽快でしばらく余韻に浸ってたほどだ。
なので、確か「天地明察」の見返しのところに、次作は、水戸光圀だと書かれていたので、実はかなり愉しみにしていたのだ。「天地明察」の中でも、水戸光圀は剛毅で魅力的な人物として少し登場していたし、水戸光圀といえば、テレビドラマの「水戸黄門」ぐらいの知識しなかったので、冲方丁が描く水戸光圀がどんな人物になるのか興味津々だったのだ。

おそらく、水戸光圀という人物を小説にするのは、「天地明察」で安井算哲にスポットライトを当てるよりも相当に難儀だったろうことは想像に堅くない。「天地明察」には、「暦」作りというわかりやすい野望がある。この野望を軸として、主人公や登場人物が配置されていく。また、碁や数学の基礎という背景も小説に向いた要素とも言える。挫折があり、それを支える周りのあたたかな支援があり、安井算哲という人物を精緻に追いかけていくだけで、その人生はあまりにも小説に適したものを持っていたとも言える。もちろん、だから安井算哲を扱えば小説が面白くなるかというとそういうわけではない。そこはこれら人物を魅力的に描き、物語としての面白さを最大限引き出す脚色や組み立てがあるからこそ面白くなるには違いないのだけど、ただ、しかし、やはり安井算哲という人物を見つけ出してきた時点で、この小説の魅力を作る土台はかなり出来てたと言ってもいいのではないか。

しかし、今回の水戸光圀には、そういうわかりやすい素材というものがない。結果的にはその後「大日本史」として脈々と編纂されていく日本の史記の基礎になるものを作りあげたり、水戸学を生み出したりという要素はあるもののの、素材として料理するには、「安井算哲」のようなわかりやすいシンボリックなものが多くはない。
身分を隠して諸国を漫遊して諸々の事件を解決していくドラマの「水戸黄門」は完全なフィクションで、水戸光圀自身は、江戸と水戸の行き来以外では、ほとんど他の国に行くこともない。そもそも歴史小説において圧倒的に戦記物が多いのは、戦争やそこに絡む権謀術数、人々の利害・思惑といったものが、最も小説のモチーフとして扱いやすいからだろう。そうでなければ、坂本龍馬のようにわかりやすい偉業を成し遂げた人物を扱う方がよほど小説としては楽だ。という意味では、水戸光圀という人物は動乱の時代を生きたわけでもなく、むしろ所謂文治政治開花の時代、もっとも「何もない」時代を生きた人物と言える。なので、歴史小説の題材としてはかなり難易度が高い題材だ。この人物を描き、この物語で読者を引っ張っていくというのは相当難しいことだ。小説家としての力量がもろに試されるといってもいいのではないか。

で、結果どうか。ボクは読み始めたら、もうほとんど休むことが出来なかった。その筆力の凄まじさ。
この小説は、光圀の人生を、その生き方、その信条、そしてその思想が育まれていく様を実に丹念に描く。この男が生きた世界では武力や腕力よりも、学識や詩歌が力を持ち、どのような倫理観で生きるのか、それを体現していくのかが問われる。その世界観・価値観が実に見事に描かれてるし、そういった価値観に生きる人達が皆気持ちがいいのだ。

光圀の人生は別れの人生だ。詩歌の師であり、心の友であった為景、ライバルとして炎をもやししながらも良き相談役となっていく読耕斎、光圀の「義」への野望をそのまま受け止めた妻泰姫、水戸藩の基礎となる様々な技術、思想の師となった舜水、そして自らが見出し、三代目水戸藩主綱條の若き大老となった紋大夫。
幼き日に友達に騙され理由もなく浪人を殺めた光圀。その浪人の因果なのか、生涯において光圀は、大切な人、かけがえのない人が唐突に奪い去られていくという運命を生きる。そして最期は、自らが苦しめられ、そして見出した「義」。その「義」をより広義に、より普遍的に、世界の「義」として成さんとした若き大老を自ら手で…. このあたりは想像や脚色も多分に含まれてはいるけれども、でも、この小説の中の光圀であれば、確かにそうしたであろう、そういう理由だからこそそうしたのではないかと説得するものがある。

 

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