カズオイシグロ「日の名残り」

4151200037

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

ここ最近、文学的にも少し壊れたというか、亜流のものを手にしていたので(今や、亜流だからこそ本流とも言えるのだけど)、なにかこう背筋がピンと伸びたきっちりした小説が読みたかった。カズオイシグロを手にするのは随分久しぶりだけど、本屋をぶらついてて、なぜかカズオイシグロの文庫本に目が止まり、その瞬間、こういう気分の時にカズオイシグロぐらいぴったりの作家もいないのんではないかと感じたのだ。

この小説を読むのはこれが二回目で、前回初めて読んでからは随分と時間が経つ。最初に読んだ時には、実は、多くの人が絶賛するほどには自分には感じ入るところはなかったのだけれど、今回は一回目の時とは随分違った印象を受けた。

それは、多分、小説内のスティーブンスと同じように、自分が初めて小説を読んだ頃からは随分と歳を重ねていたといこともあるだろうし(といってもまだまだ若いが)、また、その年月の中で、自分がしてきたことや、自分が考えてきたことなどが、果たして「正しかった」のだろうか、自分はスティーブンスと同じようにそう思いたいが故の鈍感さで、あえて様々な不都合に目をつぶってきたのではないか、というようなことを考えずにはいられなかったといことも影響しているのかもしれない。

初めて読んだ頃は、過去を美化して回想に耽り、郷愁にかられる主人公スティーブンスがどうにも哀れにしか思えなかったけど、今回は、スティーブンスという人間には共感できるものがあった。まだまだ若造のボクが言っても説得力もないけども、でも、まぁ人生ってこういうもんじゃないかと思う。彼の人生は、傍から見れば、うまくいったとは言えなかったかもしれない。仕えたダーリントン卿は失脚し、女中頭からの想いにも全く気付いてなかった。彼は、自らが最上とした「品格」というものに縛られ、色々なものが見えていなかった(見ないようにしたかった)。しかし、最後に彼は再び、今のファラディ氏にとって「本物の」執事たろうと、きちんとジョークも勉強しようと心に決める。
読み方によっては、この最後はあまりにも哀れにも思えるのだけど、でも、このある種の愚鈍さや鈍感さ、そして従順さというものは、決して気分の悪いものではない。

彼は最後の最後で、自分が信じたものや価値だと思ったものへの疑問に目を向ける。
それを認めることは、自らを支えてたものを自ら否定することに繫がる。そして、たまたまその場に居合わせた名前もわからない老人にこんな吐露を吐く。

私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか。


自分はそう信じたかっただけなのではないか。スティーブンスの吐露に対して、老人はこう返す。

「なあ、あんた、わしはあんたの言うことが全部理解できているかどうかわからん。だが、わしに言わせれば、あんたの態度は間違っとるよ。いいかい、いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。何だって? 昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。 いつかは休むときが来るんだよ。わしを見てごらん。隠退してから、楽しくて仕方がない。 そりゃ、あんたもわしも、必ずしももう若いとは言えんが、それでも前を向きつづけなくちゃいかん」

(略)

「人生、楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」


誰にだって、少なからず自分自身の経験や過去に、スティーブンス的な思い込みや誤解や盲目さで、見失ってたことや失ったものがあるはずで、だからこそ、この最後のスティーブンスの吐露と、それへの老人の回答に、じわっとこみ上げてくるものがあるのではないか。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です