深夜特急〜村上春樹35歳問題〜多崎つくる

初めて読んだのは高校の頃だったろうか。
なんか衝動的に読み返したくなったけど、手元にないのでKindleで購入してみた。

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二十代から遠く離れて

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)
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読み始めるとやはり止まらなくなった。

初めて読んだ時は、こういったバックパッカー的な旅行に憧れて、いつか自分もこんな刺激的な一人旅がしてみたいと思った。結局、そんなことを思いながらも、ボクは恐がりで寂しがりやなので、一人旅は国内が精一杯といったところ。沢木耕太郎のようにはなれなかった。

今回読み返してみて、少し複雑な気持ちになった。哀しくなったのだ。
それは、自分に残された可能性の問題なんじゃないかと思った。

まだ高校生のボクにとっては、この作品の主人公の26歳は、まだまだ先の未来のことのように思えていたし、いつか自分も年齢を重ねて行く中で、こういう衝動に駆り立て、日本を飛び出したりすることもあるのかもしれないなと、未来への漠然とした希望や夢を見れていた。しかし、今回読み返したボクは、もう三十代を超えて、今や不惑だ。
そういった可能性や未来がどこまで残されているのか、もう自分にはこんな旅をすることは、まず難しいだろうという諦めみたいなものが襲ってきて、それが少し哀しく思えたのだ。

いや、旅をすることは可能かもしれない。いくつになったって、そんなチャンスはごろごろしてるだろう。本人の気持ち次第でどうにでもなるんだろうとは思う。が、多分、二十代の時の気持ちや、十代や二十代にしか持つことができないような特有の気分みたいなものや衝動や期待や不安や憧れやといったものを抱えて旅をすることは現実的には難しい。そういったものからは、十分すぎるほど歳をとってしまったし、その先にしても、十代や二十代の頃に想像を膨らませられたような未来をイメージすることは、実際、難しい。

村上春樹の35歳問題とは?

あぁ、これってまさに村上春樹の「35歳問題」ってやつじゃないか。

村上春樹の短編小説集「回転木馬のデッド・ヒート」の中に「プールサイド」という小説がある。この小説には、「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲がってしまったことを確認した」という一説が出てくる。そう、東浩樹さんは、この短編や、その他の春樹の様々な作品に登場する象徴的な年齢としてこの35歳を取り上げ、「35歳問題」と称している。

「35歳問題」は、人生の半ばを過ぎて「できたかもしれなかった」という仮定法過去の総和が直説法過去・直説法未来の総和を上回ることにまつわる人生観の問題だ。仮定法過去の領域が直接法過去や直接法未来の領域を浸食していくことによって、人は過去の亡霊に捕われて生きていくことになる。
こういった端境期を村上春樹は「35歳」と設定している節があり、先の「プールサイド」に限らず、色々な小説の中で繰り返し登場する。

たしかに、僕はすでに35歳を超えて、大きな仮定法過去の領域を抱えて生きている。それは時折、「未来」を揺さぶる。
「深夜特急」を読んで、「できたかもしれない過去」と、これからの「できるかもしれない未来」との比較において、「できたかもしれない過去」の総量が上回ってしまったから、ボクは哀しくなったのだろう。

デタッチメントからコミットメントへ

しかし、そんな感傷的な気分に浸ってる場合ではもない。

村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、36歳の主人公が、過去のある事件によって断絶されたものを取り戻すための巡礼の旅に出るという話だ。
それまでの春樹の多くの作品が「35歳」という年齢を超え、より一層のデタッチメントを装うことを主義とするものが多かったのに対して、ここ最近の春樹作品は、「あえて関わる(=コミットメント)」という内容が多くなってきており、この「多崎つくる」もまさにそういった流れに位置づけられる作品だ。
過去の大きな重石を取り除くために、自らが動く。「やれやれ」とクールに受け流すのではなく、自ら積極的に物事に関わっていく。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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そう。「仮定法過去」の亡霊に囚われていても仕方がないではないか。

歳を重ねるということは、当然「できたかもしれないが、できなかった」=仮定法過去を生産していくことだ。でも、それ以上に「できたこと」=思い出を愉しめることだし、歳を重ねたからこそ出来る未来だってある。多崎つくるが、巡礼の旅に出ることができたのは、色々な切っ掛けがあるにせよ、歳を取ったからということだって大きい。

ある時期、僕も過去の亡霊みたいなものにすごく取り付かれていた時があったし、今でも、時々、何かのきっかけで(例えば、上で書いたみたいに「深夜特急」を読み返したりして)、大きい喪失感みたいなものに苛まれることもあるのだけど、四十を超えてからは、そういうことが随分減ったように思える。

ある種の開き直りみたいなものもあるのかもしれないが、「仮定法過去」の亡霊が大きくなればなるほど、そこに対抗するように、これからの未来に向けて今まで以上に積極的に挑戦していこう気になっているのだ。

よくよく考えてみたら、35歳以降の僕のほうが、それまでの自分よりも多く新しいことに取り組んでいたりして、それは大部分は、結婚したことや妻の影響も大きいのだが、まだまだ「仮定法過去」なんかに支配されるには早すぎる、なんてことも思っている。「深夜特急」のような独り旅はできないかもしれないが、二十代には出来なかったような旅がこれからもまだまだ出来るはずだろう。

  

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