深沢七郎はもっと読まれるべき作家

去年僕が読んだ小説家の中で最も印象に残った小説家といえば、もう間違いなく深沢七郎である。

人によっては「今更」だろうし、最近の人だと、「誰それ」という感想を持つ人も少なくはないだろう。

僕は、深沢は「楢山節考」しか読んだことがなかった。「楢山節考」も、今村昌平の映画で知ったのが先で後から原作を読んだ。映画の元ネタがどんなものか知りたくて手にとっただけで、深沢のこともよく知らないし、あまり興味も持たなかった。なんて勿体無いことをしてたのだろう。高校ぐらいの僕にはまだまだ「楢山節考」みたいな小説の凄みを感じとれる能力がなかったということか。

それが昨年ふとしたことがきっかけで、深沢の短編集を手にして、それにはほんとにびっくりしたのだ。そして再度、「楢山節考」も読み返してみて、やはり驚愕せずにはいられなかった。なんという小説だろうか。姨捨伝説を主軸にはしているが、何よりも凄まじいのは、捨てられる本人こそが捨てられることを肯定的に捉え、早くにその日が来るために、息子に気を遣わせないためにあれやこれやと画策するその様と、その狂気を描くその独特の文体の凄さだ。


深沢七郎の最大の武器はそのなんともいえないその文体だ。ゴツゴツした粘着力のあると言えばいいだろうか、当然名文と言われるようなものでもないし、読みやすくもない。でも、その文体だからこそ、人々の哀しみや憎しみや辛さみたいなものが、単なる小説っぽい一つの見立てとして現れてこないし、変に湿っぽくならない。だからこそ、「楢山節考」のような世界も、お涙頂戴には決してならない。母の狂気や気迫が読み手に攻めよせてくる、そんな感覚に囚われるのだろう。


その後、読んでなかった深沢の小説を手当たり次第に読んだのだが、なんといっても「笛吹川」と「甲州子守唄」。この長編二作だろう。こんな凄い小説があったんだ、僕はまたまた驚愕したわけだ。驚愕し過ぎて驚愕のインフレで、嘘っぽく聞こえてしまいそうだが。

マルケスの「百年の孤独」を初めて読んだ時に感じたような喜びというか感覚だろうか。小説・文学としての可能性、時間や空間を一行のうちに行き来していく運動の愉しさ。単にストーリー小説では味わえない、その独特の世界やの広がり。深沢のこの二作にも、小説、文学でしか決して味わうことの出来ない要素が凝縮している。

どちらも甲州笛吹川の周辺で貧しく暮らす人々と、その歴史を独特の筆致で描いた長編で、連作というわけでもないのだが、続けて読めば、壮大なサーガとして捉えることが出来るだろう。

ボコが生まれ、育ち、そして老いて死んでいく。戦があり、不条理があり、貧乏があり、哀しみがある。そこで生きて、死んだ人たち。ただ、それが繰り返されどこまでも続いていく。考えてみれば、地球では昔っから、ずっとそれを繰り返してきたんだな、と。この小説読んでると、自分もただそのサイクルの一つなんだな、自分の人生なんて大したもんじゃないなんて思えてくる。

でも、それは厭世主義的な悪い意味での諦念ではなく、ただただ世界とはそのようなもの、という一種の達観的な境地として立ち現れてくるものだ。生をもっと大きな視野で捉えなおさせるというか。それを教条的でも宗教的でもなく、「そういうもんだ」と受け入れさせる。この小説にはそんな力があるのだ。

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