人事・評価制度を考える

今、ボクの一番の関心は、同業種の会社がどんな人事・評価制度を持っているのかということだ。人事・評価制度って詳細なものはなかなか表には出てこないので伺い知れない。デザイナーやシステム、ディレクターという職種ごとにどのような評価軸を設けているのか、あるいは設けていないのか。その評価をどのように給与に反映しているのか。「成果主義」を導入する場合、デザイナーやプログラマーといったどちらかとういと専門技能職系の人たちはどのような評価要素を設けているのか?
昇格や昇級の基準を社員は理解しているのかなど等。同業界の方、教えて下さい。あなたは自分が何で評価され、その評価がどのように給与に反映されているかを知ってますか?

人数が増えてくるにつれて、人事・評価制度の重要性は高まってくる。それまではほとんどマネジャーの一存で決めていたものが、そうはいかなくなる。「どうしてあいつが?」「なぜ私がこういう評価なの?」という不満が必ず出てくる。

もちろん人事・評価制度というのは、給与の問題だけではない。どうすれば給与が上がるのかという指標は、何を学んでいけばいいのか、何をすれば良いのかという教育や学習の指針にもなるだろうし、モチベーションを支えるものにもなるだろう。

結局、人事・評価制度というのは、どんな風に社員を教育していくかとうこととも関係しているし、社員の教育が絡めば当然、会社の方向性や文化みたいなものにもつながる。財務と並んで、人事ってのは会社の要の一つだ。

最近は「成果主義」の導入があちこちの雑誌や新聞で話題になっている。たいていの語り口は成果主義を導入。新入社員でも給与に最大いくらの差が!みたいなものばかり。どうも成果主義の嫌な面ばかりを誇張しているように思える。

「成果主義」と「能力主義」の違いは何だ?
単純に言うと、「能力主義」が「~ができる」ということに対して評価を下すのに対して、「成果主義」は「~できている」「~した」という成果に対して評価されるということだろう。(思いっきり単純化しているけど…)

人事・評価制度をつくっていくときに、ものすごく悩むのは「相対評価」と「絶対評価」の問題だ。「相対主義」では、評価を行う母集団を分母として、ある評価レベルに偏らないように評価する。評価が5段階だとして、全員が5ということはありえない。分母に対して、相対的な評価が下される。
労働分配率なんかを考えると、社員の平均年収というものを想定しなきゃならない。平均年収を想定するということは、相対的に評価するということだ。平均年収を500万円に抑えたいと思えば、3人の会社なら1人が800万円、1人400万円なら、1人は300万円になる。全員を800万円にはできない。

しかし、「相対評価」では社員同士が教育しあい、助け合い、高めていこうという文化は生まれ難いのではないか。そりゃそうだ。全員が並んでレベルアップということはありえないのだから。他人の評価が上がるということは下手すると自分の評価を下げることになりかねない。そんな状況で「育てる」なんていう発想が生まれるだろうか。

そうすると、「絶対評価」だ。全員が高い評価を受ければ、全員の給与がアップする。そういう制度が一番望ましいと思う。

「絶対評価」を行おうと思うと、「成果主義」を導入しなければならないのではないか。「能力評価」では厳密には「絶対評価」は行えないだろう。その「能力」が必ず「成果」に直結していれば良いが、そんなうまくはいかない。安くて良い商品が売れないのと同じように「能力」と「成果」は関係ないとは言えないが、絶対ではない。「能力主義」で「絶対評価」をしていたら、下手すると会社は危なくなる。全員の給与は上がったけれど、会社は瀕死。これでは当然会社も社員もうれしくはない。

「成果主義」というのは、同じ年齢の人間でもすごい価格差が出てしまう、というようなただ人間的つながりとかそういったものを希薄にするようなものではない。「成果主義」によって全員がハッピーになれる土台をつくれる可能性がある
「成果主義」を導入するとしたら、こういう考え方をベースとしなければならない。「結果がすべて」という割り切りをクローズアップするのではなく、みんなで幸せになるための考え方として捉える必要があるのではないか。

ただ、ボクは「成果」だけで評価するのもどうかと思ってる。

「成果」というと「売上」だとか「粗利益」だとか、「新規プラクティスの獲得数」だとか、そういうものだけになってしまうけれども、完全にそれだけで割り切って評価するのも危険だろう。結果に至るプロセスや考え方だって重要だし、それらを支える知識や技能だって必要不可欠だろう。「結果がすべて」という文化が広まれば、ある意味結果を生むためなら何をやってもいいなんて暴走にもつながってしまいかねない。
そうすると、最も成果を上げている人がやっていることや考え方みたいなことも「成果」として捉えたほうがいいだろう。言わば「コンピテンシー」ってやつだけど。そして、それを支えるための「知識・技能」という能力。さらに「会社の道徳規範や倫理観」(これはものすごく評価し辛い)。これらを複合して評価基準ができれば良いのではないかと思う。

うちの会社では「シニア、ミドル、ジュニア」という3階層があるけれども、「ジュニア」では「知識・技能」や「道徳規範や倫理観」での評価ウェイトが高く、ミドル、シニアになっていくにつれて「成果」や「コンピテンシー」のウェイトが高くなる。しかし、どれか一つに完全に偏ってしまわない。こういうモデルにしなきゃならないだろうと考えている。そして、全員がある意味100点満点をとれたとき、会社はその分の高い業績を実現していなければならない。

今、ボクが考えている評価方法のベースはこんな感じだ。これにどのように給与体系、処遇方法、昇級基準、昇格基準をつくっていくか。運用していくか。そんなことをここしばらくずーっと考えている。

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コメント

  1. frank juso より:

    被雇用者として一言。成果主義でも能力主義でも同じですが、経営者に見識がなければ、単なる減給の道具でしかないということ。お前の評価はC-だから給料もC-、といわれたら社員には飲むかやめるかぐらいの選択肢しかない。うちがそうです。

    で、お前が経営者ならどうすんねん、と言われたら(言われないでしょうが):

    評価とか給料の総額とかが、経営者の都合でどうなろうとも、社員が「これは公平だ」と納得すればいいわけで、それには二つのディスクロージャーがあると思う。

    ひとつは、相撲の番付制。朝青龍の評判がいかに悪くても、仲間内では「あいつが一番」と相撲取りなら思っているはず。評価・報酬の降順と本人の位置だけわかれば十分。

    もうひとつ。労使の関係でいう会社の財務状況。これだけ儲かったから、これだけ払うという明るい経営。

    この二つをガラス張りディスクロージャーすることで、不平不満の50%は取り除けると思うが。

  2. ゆで麺 より:

    まったくその通りだと思います。どちらの制度にしても、給与を抑えたり、減給したりするためにあるなら意味ないでしょうし、評価への納得が得られなければこれまた意味ないですよね。

    その意味では当然、評価者の評価も重要でしょうし、ある種の基準が会社で共有されていて、その基準に納得しているという状況をつくりださないと... いくら厳密な基準つくったって、納得得られないでしょうね。

    偶然ですが、人事・評価制度のことについて考えているときに、ある人から「相撲の番付制」ってのは優れた制度だと思う、という話を聞いていて、確かに言われればそうだなぁと関心してたところでした。


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