ノヴァーリスの引用

ノヴァーリスの引用集英社文庫

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新幹線に乗る前には必ず本を買う。
昨日も大阪に帰る新幹線に乗る前に、東京駅構内の本屋に立ち寄り、本漁りをしていたところ、「ノヴァーリスの引用」が文庫本として平積みされていた。

奥泉光は昔から好きで、ハードカバーで発売されるや買ってる。文芸誌に掲載されれば普段は買わない文芸誌も買う。「ノヴァーリスの引用」についても、随分前に読んでいる。もうほとんど内容も覚えてないので、読み返してみるか、ということで購入することにした。

奥泉さんの書く小説の根本には、いつも現実というものがおそろしく危うい基盤に立っているという認識がある。
「ノヴァーリスの引用」も、大学時代に自殺したと思われる男とそれにまつわる物語を、同級生たちがふとしたおりに探偵趣味よろしく、「あれは他殺ではなかったか?」と推理をめぐらせることから始まる。推論の過程で、「過去」という「物語」が自分の都合のよいようにつくられていくのか、ということが明るみになっていくのだ。
しかし、「推理小説」との決定的断絶は、推理小説がある一点の真理(真犯人/トリック)というものに向かって、物語は収斂していくのにたいして、この小説では、むしろ「現実」の多義性というか多層性というものにむかって拡散していくところか。

登場人物達は、その人物の「死」にさまざまな物語を付与していく。この遊戯は、「死」という特異状況を題材にしつつも、実は私たちが普段から何気なくしている思考様式の相対化ではないか。

寺山修司はかつて、現実と虚構というニ項対立があるのではなく、虚構的虚構と虚構的現実の対立なのだ、というようなことを言っていた。

過去も現実も未来も。私たちはつねに「物語」を生きる。
社会や国家が提供してくれた巨大な物語が崩壊した今、わたしたちはわたしたち自身の物語化(虚構化)を行い、たえず生を活性化させていかなければいけない存在なのだ。

マーケティングには何の関係もないように思えるが、マーケティングもやはり大きく変わった。それは現実に生きる人々が依拠する「物語」が変わったからではないだろうか。(あまりにも強引すぎるか….)

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