私の嫌いな10の言葉

金曜日から東京出張。今回は火曜日まで東京なので週末を久しぶりに東京で過ごすことになった。土曜日は会社。今日は友達の誕生日ということでお祝いに。

書籍類は何冊かは京都にも持ってきているが、大部分は東京の家に置いたままにしている。
東京に何日かいるときにはうれしくなって、京都では読めない本を片っ端から読む。すでに読んだことがある本は、ぱらぱらめくって読みたいところを流し読む。
今回は、中島義道の本を何冊か読み返していた。

中島義道の本は好んで読んでいる。彼の偏執狂的な思考や言葉への拘りや、社会、世界への立ち回り方すべてが理解できるわけでもないし、理解したいとも思わないが、少なくとも彼の書くものを読むことで、自分が知らずうちにマジョリティの立場を利用して、マイノリティを蔑んでいることを理解する。自身の言動や態度の方向修正をするのに、彼の本の過激さ(といってもそれほど過激でもないけど)は有用な処方箋なのだ。

本書はそんな中島義道の本のなかでも比較的わかりやすく穏やかな本だろう。
彼自身が大嫌いな言葉を10個ピックアップして、それぞれの言葉が持つ恐ろしさや、その言葉が成り立つ気持ち悪い思想や背景、その言葉を語る人々が善意と信じてはいるがその実は恐ろしく悪意ある思想を解き明かしてくれる。

私の嫌いな10の言葉
4101467226中島 義道

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中島義道は変な人だ。その変な人さ加減というのは徹底している。
よく「個性的でありたい」「他の人と同じじゃ嫌」なんてことを言う人がいるけれども、そういう人たちの発言はたいてい個性的であることや、他の人と同じじゃないことのつらさを直視したものではない。都合の良いときは「みんなしている」というような乱暴な理由を用意してたりする。

しかし、中島義道はまちがいなく「個性的」であり、そして「個性的」であることがどれほど今の日本で生き難いことかということを経験を持って知り尽くしている。「個性的」である人に対して向けられる様々な言葉の暴力に恐るべき感受性を持って立ち向かう。

相手の気持ちを考えろよ!

この言葉を彼は虫酸が走るほど嫌だと言う。
その理由を、この言葉が前提とする世界が、都合の良いときだけ相手の気持ちを大事にしていて、実はこの言葉が突きつける過酷な要求というものを想定していないからだと語る。

相手の気持ちを考えるならいじめる者の「楽しさ」も考えなければならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えなければならない。わが子が誘拐されて殺害された者、妻を目の前で強姦されたあげく殺された者が、相手の気持ちを「考える」とはどういうことか?

(略)

相手の気持ちを考えろとは、これほど過酷な要求なのです。

(略)

往々にして「相手の気持ちを考えろ」という叫び声はマイノリティ(少数派)の信条や感受性を潰しマジョリティ(多数派)の信条や感受性を擁護する機能をもってしまう。それで社会的には一つの有効な機能を果たしているとも言えますが、少なくともこう語る人は、暴力的な側面をもつことを意識してこの言葉を発する必要があります。


もちろん、「たいていの人は」「普通の人は」そうしてもらえればうれしい、楽しいなんてことはあるわけだけれど、こういった乱暴の言葉は、中島が言うような「マジョリティの信条や感受性」には目を瞑ってしまうという恐ろしさがある。

キリスト教的な思想では汝は自身に施して欲しいことを隣人に施せ、となるが、これはいわば第二次自己中心主義だと岸田秀も語っている。自分が徹底的に全知全能で他人のことをまったく何も考えない幼児が第一次自己中心主義だとするなら、「相手の気持ちを考えろ」というのも、実は自己中心的な世界観の延長でしかない。

他人が自分と同じことがうれしいとどうして言えるのか。
自分が施して欲しいことが必ずしも他人にもあてはまるとは言えない。
たとえば、みんなといることが楽しい人には、独りのほうが気楽な人の気持ちがわからなかったりする。あいつも寂しいだろうから呼んであげろよ、という余計なお節介が持ち込まれたりすることは屡々ある。ボク自身こうした第二次自己中心主義の被害者になったことは何度もあるし、また加害者になったこともある。

中島義道や岸田秀やらを読むようになってから、ボクは可能な限り、こういう安易に他人の立場を尊重するような言葉を発しないように注意してはいるつもりだ。そういう言葉を発してしまう時でも、それがいかに自分に都合のよい方便として使ってしまっているかということを考えるようにはしている。
が、しかし、それでもふとした折には、マジョリティの立場や主義を前提として物事を考えてしまっていたり、ものを語っていたりする。気をつけてどうにかなるものではないが、この手の感受性が鈍ってしまうことは恐ろしいことだと思う。

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