奥泉光「モーダルな事象」

あけましておめでとうございます。
先ほど同居人は突如、「新潟に行ってくる」と言い残し出ていきました。
「なんで新潟?」と訊くと、「やっぱり人間は旅をしないと駄目だ」とわけのわからないことを答えるのみ。青春18切符で新潟へ行くそうです。私は年末にボードに行ったり、私事でいろいろな用事があったりして、今日久々に家に帰ってきてメールをチェックしたりしてるというわけです。


新年一発目に読んだのは、本書と小川洋子の「博士の愛した数式」でやした。

桑幸やフォギーなど、奥泉作品を読んできた人ならピンとくる名前が登場し、「鳥類学者のファンタジア」や「バナールな現象」といった作品群とのメタ交錯があったりと、ある意味で本書「外」での愉しみもちりばめながら、正当なミステリーとしても成立させる力量はさすがだなぁと思う。諸前作を読んでいたほうが面白いには違いないが、もちろん本書から手にとっても充分に愉しめる一作だ。
桑幸を中心とした物語は大学に巣くう人たちの俗物ぶりや馬鹿さを嗤い、北川アキと諸橋倫敦の『夫婦刑事』を中心とした物語は本格的な謎解き、ミステリーとしての装いを軸とする。この二つの側面は奥泉さんお得意のもので安心して読める。そして笑える。

語り口は相変わらずの饒舌体だ。
確かに、千野帽子が指摘するように、彼のテクストは「芸術としての文学」が追い求めた語り手の擬似透明性とは対局に立って「神の視点」に立つ語り手の優位性を充分に発揮し、むしろ読者を小説内に入り込ませるのではなく、小説との一定距離を保てと言わんばかりに過剰な語りを続ける。

奥泉さんの小説を読むといつも思うのは、小説の語り口の面白さとは、決して「矛盾しない視点」であるとか、「透明な語り手」といったカルチャースクールなどの「小説教室」が教える規範や原則によって確保されるものではなく、むしろ三人称視点や一人称主観の視点がめまぐるしく交錯したり、語り手が登場人物の時間に割り込んだりという「運動」のなかに在るということだ。もちろんこういったレトリックは技巧としては決して新しいものではないのだろうけれど(奥泉さん自身も指摘しているがドフトエフスキーなども小説規則的なところから言えばむちゃくちゃなことを結構している)、自然主義的文体を志向とする文学界や文芸批評の抑圧が強い「純文学」のなかではとても新鮮に感じる。
(一方千野さんが指摘するように、エンターテイメント小説では、これらの語り口は、脈々と受け継がれてきたわけだけど)

もちろん奥泉さんはこれらのレトリックを風刺や批評としてのみ利用、採用しているのではなく、「物語」を面白く物語るための必要なレトリックとして戦略的に利用している。
「物語」にちりばめられたアトランティスのコインやらロンギヌス物質やらといったかなり大げさな装置や、また「夫婦刑事」があちこちに旅行しては謎に少しづつ迫っていくという本格ミステリーにはあまりにも紋切り型の手法は、奥泉さんの過剰な語り口によって吸収され、魅力的な「物語」として生成するのだ。


奥泉小説は単なるミステリーファンよりもどちらかというと、筒井康隆、後藤明生、小島信夫、阿部和重といったメタフィクションや語り口を意図的あるいは無意識的に操作するような作家が好きな人たちに向いてると言えるだろう。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です