ほぼ日手帳を買った理由

ここ最近はえらい手帳ブームのようだ。本屋のビジネス書コーナーに立ち寄るたびに、手帳の活用本が増えている気がする。手帳ブームの火付け役がGMOの熊谷さんなのか、誰なのかはよくわからない。ボク自身がフランクリンプランナーを使い出したのは2004年の5月からで、このきっかけは熊谷さんの本を読んだことや、同時期にボクがよく読んでいるブログのオーナーの方たちが自身の手帳活用について語ってたりしたことが重なって、随分前に読んだもののピンとこなかった「7つの習慣」を再読したことだった。以後、手帳は活用しつづけ、ずぼらなボクにしてはえらくきちんとファイリングしたり、索引をつけたりして2004年、2005年を終えた。
今年もフランクリンプランナーは使い続けるとは思うが、実は年末にもう1つ手帳を購入した。それが「ほぼ日刊イトイ新聞」から生まれた「ほぼ日手帳」だ。

ほぼ日手帳の秘密―10万人が使って、10万人がつくる手帳。
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ロフトで皮仕様のものを購入した。なぜフランクリンがあるのにわざわざもう1冊手帳なんだと問われればよくわからないのだが、なぜかフランクリンには「日記」を書く気になれないというのがその理由かもしれない。日記というより「ログ」と言ったほうが近いのだろうけど、ボクは自分の活動とか行動の履歴みたいなものを残しておきたいという欲求がかなり昔からあるようなのだ。(と他人事のように書くのは自分でもその欲求がよくわからないからだ)

大学時代は、ちくまの文庫手帳を愛用していた。文庫本と同じサイズと厚みで持ち運びに便利なことで、手帳というより日記帳として利用していた。その日読んだ本や観た映画、麻雀の成績や、行ったところなどを走り書きしたりする。もちろん簡単なスケジュール帳としても利用するので普段から持ち歩いてて、ちょっとしたことをメモする。そうすると、「ログ」だけじゃなくて、祇園会館やスペースベンゲットなどの映画館のスケジュールをぴあから切り抜いて貼り付けたり、サークルの人たちの電話連絡表を貼り付けたり、大学の講義出席表をつけたりと、だんだんそこに「自分」を中心とした情報が集まってくる。すると、ますます手放せなくなる。これはかなり自己陶酔的な行為かもしれないけど、それが嬉しかったりする。その手帳さえあれば、自分のログと直近の予定ややりたいことが最小限分かるということが嬉しいのだ。

ところがフランクリンではどうしてもそういう使い方ができない、というよりする気にならない。どうも仕事に偏ってしまうし、日々の細かい雑事やら、自分の小さな興味やら関心やらといったものを記録するには、あまりにも大げさすぎる気がしてしまうのだ。ビジネス上のTODOを日々、あるいは月次で管理していったり、中長期的な目標から日々の活動へブレイクダウンしていくという、かなり高尚な?利用方法では威力を発揮するのだろうけれども、日々の生活なんてものは、その殆どは何か目的や目標に向かって進むための布石みたいなものとしてあるのではなく、何の目的も目標もなく、ただそれが愉しいからという理由だけで無意味に時間をつぶすことも多いだろう。フランクリン的思想ではそういうのは「無駄」なのかもしれないけど、ボクはそういうものを無駄なものとして切り捨てるなんてことがどうしても出来ない。

そういう記録を付けたいということであれば、日記帳を買えば良いじゃないかと言われるかもしれないけれど、これは日記帳ではやはりダメなのだ。日記帳を持ち歩いている30歳台の男性ってちょっと気持ち悪いし、日記みたいに書くことがそのまま内面の吐露とかにつながって、そのまま書くことが自己目的化していくような世界ってのと「ログを残す」ってのはやはり少しというかかなり違う。

で、同じようなことを本書のなかで糸井重里さんが語っている。

その日の予定や約束が書いてあって、個人の内面まで自由に書いてあったら、それはもう日記じゃないか、とも言えますね。実際、日記として豊かに使っている人たちもたくさんいる。
でも、じゃあ、手帳じゃなくて日記帳でいいのかというと、これがそうじゃないんですね。これは、はじめからそう考えてつくったというよりも、この手帳がどう使われているかというのを見ていくうちに発見した、あとづけの発明みたいなものなんですけども。
なにかというと、ほぼ日手帳というのは、日記のように使えるけれども、体裁上はあくまでも手帳なんですね。体裁だけじゃなく、実際に使う人は持ち歩くわけだし、ビジネスの場所でも開いたりするわけです。
 そうするとどうなるかというと、個人の部分を書きながらも、内面に耽溺しなくなるんです。
 日記つて、内面の深いところを記さなくてはいけないと、みんな思い込んでいる節があるんですよ。ほら、日記文学じゃないですけど。でも、それを持って歩くと思ったとたんに、内面をさらしすぎなくてすむんです。
 つまり、「なにかのときに人が見るかもしれないぞ」っていう、ちょっとした注意深さが自然に生まれるんです。そういうふうに書かれた日記というのは長すぎるし、少し冷静に綴られるぶんだけ、あとから自分でたのしく読み返すことがえきるんです。(略)
手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです。

「手帳に書いた自分の内面というのは、深さとしてちょうどいいんです」というところに随分と共感した。糸井さん自身「あとづけの発明」とは言ってるけど、その「あとづけの発明」をより強力なものにするために、2006年度版のほぼ日手帳はさらに強化され、ウェブサイトを見ているだけでワクワクしてしまった。で、ロフトに行って皮カバー版の2006年手帳を買ってしまった、というのが顛末だ。

さて、手帳のブームってのはやっぱりブログブームに連動しているのではないかという気がしてきた。ブログに火がつく前にも、個人ホームページで日記を書く人は多くいた。しかし、それが大きなムーブメントにならなかったのに、ブログがあっという間にブレイクしたのは、MovableTypeやらココログやらといった便利なブログホスティングサービスが登場したからだけでななく、「日記」というものが「書く」というところにとても重きを置いてしまう表現形態を容易に呼び寄せてしまう言葉なのに対して、「ブログ」という言葉からは、単なる「ログ」としての気楽さや冷静さみたいなものを連想させ、それが新たなブログの書き手を生み出していったからではないかとか。

じゃぁ、なぜ「深さとしてちょうどいい」内面をさらしたいという欲求はどこから生まれるのだろうか。そんなことはボクは全くわからないし、あまり考えたくもないのだけど、社会分析的には、「広告都市・東京―その誕生と死」で北田さんが分析したように、ポスト80年代以降の「見られていないかもしれない不安」という文化的なコンテクストの影響も大きいのかもしれない。(文化的なコンテクストが先なのか、それともコンテクトが発見されて初めて、そこに「在る」ように思えてしまったのか。文化人類学でも記号学でもそうなんだろうけど、やっぱりこういう学問ってのは、それがそこにあったかのように「発見」されるわけだけど、どうもそこに作り物的な形而上学主義を感じずにいられないんだなぁ)

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コメント

  1. Sue's Life より:

    ほぼ日手帳の使い心地は

    ほぼ日手帳バリバリ使って
    ます!
    メモ魔には頬ずりものかも。
    ただやっぱり重い。
    元から重いのに更に物を入れ、
    各ページに何かを貼ったりする
    ...

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