小川洋子「博士の愛した数式」

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川 洋子


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今ごろになってこの小説を読んだのは、文庫本になっていたこともあるが、映画化が決定してしかもその主演が深津絵里だというのが大きい。深津絵里のファンである私は、深津絵里がどんな役所を演じるのかという興味からだけで本書を手にした。

小川洋子さんの名前はもちろん知っていて、ミーハーは私は芥川賞を受賞した「妊娠カレンダー」 も読んではいるのだけど、どうしてもそれ以降の作品を手にする気にはなれなかった。それはあまりにも彼女の作品が優等生すぎる感じがしたからだ。当時ボクはどちらかというと既存の文学を超える、あるいはポストモダンと呼ばれるような自分で自分の首を絞めるような文学に興味が先行していて、「伝統的な」文学のレールの上に乗っかかってるように思われる作品はどうしても魅力を感じなかったのだ。そういう文学は三島由紀夫までで充分だと思っていた。まったく若気の至りとしか言いようがない。
本書を読んで、正統な(という言い方も容易に文学の形而上学的な妄想を引き寄せるけど)文学の面白さというか、緻密に計算されて、綿密に練り込まれた小宇宙の素晴らしさを改めて味わうことができた。

随分と話題になった小説なので、粗筋などはたいていの人が知っているかとは思うので紹介はしない。この小説の魅力は粗筋などではないからだ。この小説の最大のの魅力は、その設定の巧さと数学という素材を介して登場人物達の交流や友情の芽生えを極めて自然に作り出すことに成功していることだ。

80分しか記憶が持たない元数学者である博士と、その家政婦として雇われることになったシングルマザー。そして、博士に「どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる偉大な記号だ」と「ルート」という愛称を授けられる阪神タイガースを愛してやまない家政婦の息子。自然主義的な小説としてはいささか設定が劇画すぎてるきらいもあるのだが、小川洋子さんの淡々とした静かな文章がその過剰さをうまく包み込み、物語そのものは静謐な印象を漂わせる。この設定に博士を中心として「数学」が物語に重層感をもたらしていて、単に「数学」を小説を盛り上げるための意匠としてでなく、実に自然に溶け込んでいる。

例えば、家政婦の誕生日が2月20日だと知り、自身が大学時代にとった学長賞の賞品についた歴代No.284との関係を語るシーン。「~220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって一組づつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った筋なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合ってるなんて」家政婦はこの博士の言葉を反芻する。小説内には「愛情」や「友情」やといった言葉は一切出てこないが、こういった言葉では表現してしまうや否や陳腐に響く独特の気持ちの揺らぎみたいなものを「数学」を介在して実に巧く表現している。

小説内には3つの時間が交錯する。80分という限られた記憶しか保持できない博士を中心とした時間と、家政婦や息子が暮らす時間。そして1975年での博士の記憶。小説内の時間の流れはルートが好きな1992年の阪神タイガースの戦いを通じて描かれる。1975年で記憶が止まってしまった博士にとっての阪神タイガースは、江夏がいる阪神タイガースであり、家政婦とルートはその事実を悟られないよう細心の注意を払いながら博士と共に80分の交流をはぐくむ。そして博士の好きな江夏豊の背番号は28。自分以外の約数を全部足すとその数字となる完全数「28」を背負った大投手江夏豊。この演出、仕掛けの巧さに思わず舌を巻く。

「数学」を素材として主人公や登場人物たちの交流や感情を表現するとなれば、どうしても素材の料理の仕方に実験的な性格が付与してしまうところ、小川洋子さんはそれを実に自然に納めるべき場所に納め、そういう手法や仕掛けが、仕掛けとして目立ちすぎないよう充分に配慮して筆を進めている。とても素人には真似のできない(こんなものを真似したら大火傷しそうだ)技だ。

正直、映画化はかなり難しいんじゃないかと思う。「数学」によって語られる微妙な感情の揺らぎみたいなものは映像になってしまうと、あまりにもダイレクトすぎるんじゃないかという気もする。まぁボクとしては深津絵里がどんな風に家政婦を演じるのかだけが興味の対象なので、映画自体の出来はどうでも良いことなのだが…

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コメント

  1. 「博士の愛した数式」(小川洋子/新潮文庫)

    オススメ度:☆☆☆☆★
    オススメ対象:数学はニガテというあなたへ。
    オススメポイント:江夏豊
    ツッコミポイント:博士といっしょに息子の心配をする雷の...

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