ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

つい最近もテレビでIQを計るなんてのがあったけれど、あの手の「頭の体操」的問題を難なく答えられる人を見ると、僕などは「あの人は頭がいいなぁ」とついつい思ってしまうのは、実はかなり偏ったものの見方、考え方なんだろうなぁ。

僕はパズルは得意な方だとは思うが、それはパズル特有の方式というか、考え方とかを「覚えている」というだけだ。パズルには一定の考え方とか筋道とかがあって、「逆転の発想」とか「ちょっとした工夫」とか、そういうもので簡単に解決できるようにできてるものがほとんどだけれど、それらは同じような問題を見たことがある、やったことがあるだけで、たいてい解けてしまう。

テレビでやってたIQ問題も、解いていたけれど、特に数列とか、数学とか、論理パズル系のものというのは、ほとんどが過去に似たような問題を見たことがあったので、簡単に解けた。

面接でパズルを使うことで、面接特有の質問にあらかじめ答えを準備しておくことを防ぎ、本来のその人の頭の回転の速さとか、そういうものを見る、ということが出来るのかもしれないが、実際、パズル好きの人というのは、多くのパズルのパターンを理解しているので、予め出題されそうな面接官の質問を記憶しているのと同じようなものではないかという気もしないではない。

僕らは子供の頃から、IQというものがあり、IQというのは「知能指数」というやつで、これは勉強ができるできないというよりは、その人の「本当の知性」というものをあらわすものなのだ、というようなことを教えられ、そしてIQをはかる問題というのが、へんてこなパズル問題が多いところから、パズル問題に強い人間というのは、勉強はできなくても知性は高い、というような考え方をいつのまにか植えつけられている。

ここでカッコつきで「本当の知性」という言葉を使ったが、このあたりですでに形而上学的というか、何か「知性」というものが測定可能性を持って存在し、「知性」こそが実は人間にとって重要なのだというような、あやしい観念が漂ってる。

IQという指標は、「勉強ができない」(日本の場合は特に勉強=暗記になるのだろうが)人を救う指標ともなりえるが、その裏返しとして、IQの低い人への蔑視、偏見をはぐくむ可能性も十分にある。(勉強もできず、IQも低い人は、どうすりゃいいのだ?)

そもそも知性や知能を定量化しようという試みが、歴史的にみても、ひどく偏った民族観から生まれてきているわけで、本書にもあるように、IQが高い人間が成功しているわけでもなく、IQが高いか低いかなんてことは、実は人生において、人においてとりたてて重要なことではないわけだ。

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