身分の差

大学時代の友人が結婚した。彼とは学科も同じ、サークルも同じで入学してすぐに友達になった。麻雀仲間でもり、競馬仲間でもあり、文学を語り合う仲でもあり、当然ながら馬鹿話し仲間でもある。かなりの男前で、例えるなら、顔は小林薫をよりすっきりさせたという感じ。男の僕がみていても惚れ惚れするような美しい顔している。お嫁さんもかなりのべっぴんさんで、こちらはPuffyの大貫亜美というところか、とにかく美男美女のカップルであり、うらやましいかぎりである。

結婚式、披露宴に行って、つくづく思い知らされたのは「身分の差」であった。
特に新郎新婦、それぞれの友達の質の違いはすごいものがあった。新婦は生粋のお嬢様である。その親類といえば京都大学なになに部の教授だとか、お花の先生だとか、みんな「先生」という肩書きがついてる人ばっかりだ。そんな新婦の友だちともなれば、やはりこれまたお嬢様ばかりなのだ。みんなべっぴんさんだし、お淑やかで、礼儀ただしく、こんな娘がいたらさぞかし両親も鼻高々だろうなぁというような人ばかり。それにひきかえ新郎側は・・・・。僕と同じく新郎も交友関係がおそろしく狭いようで、友人はほぼ全員大学サークルの連中であったが、いまだ大学を卒業してない奴はいるし、卒業して就職したはいいが、6ヶ月で夜逃げしてきた奴もいるし、とまあ僕もふくめてろくな人生をおくっている人間がいない。

そんな連中ばかりである。披露宴にでる料理のようなにキャビアやトリュフといった高級な素材を使った、手の凝った料理など食べ慣れているわけがない。いつもジャンクフードばっかり食べてるものだから舌の感覚が狂ってしまっている。みんな「まずいまずい」とぶーたれながら酒ばっかり飲んでる始末。人のスピーチもぜんぜん聞かず、ほとんどサークル同窓会状態で好きなことぺらぺらしゃべっていた。それでいて、自分たちのスピーチはめちゃくちゃである。

その大馬鹿連中の一人。C山という男のスピーチなど、突然「詩を贈ります」と口上張って、なにを言うのかと思いきや

「君はなぜ泣くの、君はなぜ泣くの。それは空が青いから」

と、およそ結婚式とは関係のなさそうな詩?で披露。披露宴出席者全員困惑状態に陥ったのは言うまでもなく、いちおう詩の解説をしてはいたが、その解説がまた意味不明。しかも「この詩はフランスのなになにという詩人が19◯◯年に発表して・・・」などとそれらしいことを言ってたにもかかわらず、あとで聞きば、実はその場で思い付いた自作の詩だったそうだ。自作というと馬鹿にされそうなんで、適当なこと言ったらしい。しかしよくやる。新郎側の来賓には、芸術を研究してる大学教授やらもいるというのに。

新婦はピアノをずっとやっていて大学でもピアノ科であった。披露宴も終盤にさしかかった頃である。いままでピアノを習わせてくれた両親に感謝をこめてピアノを弾くというプログラムが用意されていた。それはもう感動のシーンである。新婦の御両親は感涙にむせび、そして感動のラストへと進んでいくはずのところ。それなのに、それなのにである。イントロ弾き始めた途端に、これまた馬鹿連中の一角、Kがいらぬことを大声で叫んでしまった。

「あっ、これ大田胃散の曲やんけ!」

そりゃ確かに太田胃散の曲ではあった、これどこかで聞いた曲だ? どこだっけ? 誰もがそう思っていた。それはくしゃみが出そうで出ないときのような、苛立たしく、もどかしい一瞬であった。それが大田胃散の曲だとわかった瞬間、口にだしたくなる気持ちもわからないわけではない。しかし、それを叫んではいけない。それでこっちの席は大爆笑。新婦側の来賓は全員ものすごい形相で睨みをきかし、新郎のひたいにはかつて見たことがないほどの冷や汗、油汗タラタラであった。

さすがの新郎も2次回のときには「おまえらなぁ~」と呆れかえっていたが、まあ仕方ない。類は友を呼ぶのだ。そうこの馬鹿な連中が君の友達なのだ。長い長い披露宴でじっと座って、食事を楽しみつつ、プログラムの流れに身をまかせておくことなど、とてもじゃないけれどできないのだ。どうしても本来の卑しい性分が顔をだす。ついついウケを狙ってしまう。小学校時代の通信簿には必ず「落ち着きがない」と書かれたくちである。

この結婚式で一つ教訓になったことがある。それは絶対にサークル連中だけは呼んではいけないということだ。しかしながら、実は、僕も交友関係の極めて狭い人間である。結局、この連中を呼ばなきゃならんことになるのだろう。となれば、同じような身分の人と結婚するしかなさそうである。

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