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1998年01月07日

プロストそっくり

世の中には自分と似た人が3人はいるというような根拠はまったくないのだろうけど、まぁそんなもんかとついつい納得してしまう諺がある。諺と言ってしまえるほど、古くから多くの人々に言いならわされてきてるわけでもあるまいが、この際、気にしないでいただきたい。

この「似ている」というのは、おそらくそっくりでなければならないのだろう。なんとなく似ている程度なら、3人どころか、何千人といるはずだし、人に限らず、動物やモノにもいるものだ。落合博満はコアラに似ているし、衣笠は北京原人に似ている。やしきたかじんはポットである。こういうのは「なんとなくレベル」にすぎない。たった3人しかいないという「似ている」は、「そっくりレベル」でなければならないのだ。このレベルというのは、誰がみてもすぐにあっ!と頭に思い浮び、しかも、もしかすると遠い昔に生き別れた双児なのではないかと真剣に疑ってしまうぐらい似ていなければならない。

予備校のとき、アラン・プロストのそっくりさんがいた。僕の通っていた予備校は席があらかじめ決められていおり、その決められた席で授業を受けなければならなかったのだが、入学して最初の席の隣にアラン・プロストがいたのだ。これにはびっくりこいたものだ。なにせ日本のしがない予備校に天才F1レーサーのアラン・プロストがいるのだから。彼の場合は、もう見た瞬間に、「あっ、プロストだ」と思ったので、その似方は、完全に「そっくりレベル」であった。まじで僕は「こいつはプロストの日本妻の元で生まれた隠し子なのではないか」と勘ぐったものだ。結局、真相はわからずじまいだが、テレビでF1を見ていてプロストがでてくるたびに、ついつい彼の顔が思い浮かび、そのたびに今でも「やはり息子なのではないか」と思ってしまう。

もちろん、そのそっくりさんは日本人であり、東大阪に住み、大学受験に挑もうとしている普通の18歳の男であったのだが、その顔のつくりはどう考えても日本人離れしていて、だまっていれば誰も日本人とは思わないようなアラン・プロスト顔なのであった。また、驚くべきはその髪であって、彼もまた、アラン・プロストと同じく、雀の巣のような天然パーマであり、これがさらにアラン・プロストそっくり度に拍車をかけていたのだ。
世界に3人しかいないというプロストのそっくりさんの一人はこんなところにいたのであった。彼にとっては、自分のそっくりさんの一人は世界で最も速い男だったのだ。どんな気持ちなんだろうか?

ふと横を見れば、そこにアラン・プロストがいて、真剣に黒板の文字をノートに書き写しているのである。アラン・プロストの顔を知っている人なら話ははやいと思うが、アラン・プロストという人はとにかく神経質そうな顔をしている。いつもなにか思索しているのような少々近寄りがたい雰囲気が顔から醸し出ているもちろんそっくりさんだから、彼の場合もものすごく神経質そうである。とくにわからない問題に頭をかかえて、悩みこんでいる姿は、本物とどこが違うのか!と紛うばかりである。
彼と本物の違いといえば、本物がフランス語をしゃべるのに対して、彼は大阪弁をしゃべることである。ある説ではフランス語と大阪弁のイントネーションは似ているそうなので、彼がボソボソと大阪弁をしゃべれば、みんなプロストだ!と振り返るかもしれない。

結局、彼のやることなすことはすべてアラン・プロストに見立てられて僕と友達連中の格好の笑いのネタ、酒の肴となってしまった。彼が誰かと立ち話をしていると、僕らは「ミーティング中」と呼び、彼がだれかの後ろについて歩いていたりするものなら「スリップストリーム」、昼食は「ピットイン」などとくだらないことを言っては大笑いをしていた。

彼とは3ヶ月近く隣の席だったのにも関わらず、ほとんど会話をかわしたことがない。彼は話かけなければ絶対に自分から話し掛けてこないタイプの人間だったし、僕もそれほど自分から好んで人に話し掛けるというようなことをしないタイプなので、接点がなかったのだ。「どこの大学めざしているの?」というような話をしたときに、「体育大学めざしてんねん」と答えた彼の姿が印象にのこっている。体育大学って運動能力とかそういった試験のほうが重要なのではないのだろうか? こんなところで普通の大学をめざす連中と一緒に勉強していていいものなのだろうか、と不思議に思ったものだ。

結局、彼は予備校を半月でやめてしまった。大学受験をあきらめてしまったのか、それとも体育大学受験のために、なにか運動をしなければならなくてやめてしまったのか、詳しいこと何もわからないが、とにかく、夏休みが明けてから、彼を予備校で見かけることはなくなってしまった。

僕が友達と、「プロスト、リタイヤしてしもたなぁ」「電気系統の故障かなぁ」などと、くだらない会話を交わしたのは言うまでもない。

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1998/01/07 12:42

1998年01月05日

身分の差

大学時代の友人が結婚した。彼とは学科も同じ、サークルも同じで入学してすぐに友達になった。麻雀仲間でもり、競馬仲間でもあり、文学を語り合う仲でもあり、当然ながら馬鹿話し仲間でもある。かなりの男前で、例えるなら、顔は小林薫をよりすっきりさせたという感じ。男の僕がみていても惚れ惚れするような美しい顔している。お嫁さんもかなりのべっぴんさんで、こちらはPuffyの大貫亜美というところか、とにかく美男美女のカップルであり、うらやましいかぎりである。

結婚式、披露宴に行って、つくづく思い知らされたのは「身分の差」であった。
特に新郎新婦、それぞれの友達の質の違いはすごいものがあった。新婦は生粋のお嬢様である。その親類といえば京都大学なになに部の教授だとか、お花の先生だとか、みんな「先生」という肩書きがついてる人ばっかりだ。そんな新婦の友だちともなれば、やはりこれまたお嬢様ばかりなのだ。みんなべっぴんさんだし、お淑やかで、礼儀ただしく、こんな娘がいたらさぞかし両親も鼻高々だろうなぁというような人ばかり。それにひきかえ新郎側は・・・・。僕と同じく新郎も交友関係がおそろしく狭いようで、友人はほぼ全員大学サークルの連中であったが、いまだ大学を卒業してない奴はいるし、卒業して就職したはいいが、6ヶ月で夜逃げしてきた奴もいるし、とまあ僕もふくめてろくな人生をおくっている人間がいない。

そんな連中ばかりである。披露宴にでる料理のようなにキャビアやトリュフといった高級な素材を使った、手の凝った料理など食べ慣れているわけがない。いつもジャンクフードばっかり食べてるものだから舌の感覚が狂ってしまっている。みんな「まずいまずい」とぶーたれながら酒ばっかり飲んでる始末。人のスピーチもぜんぜん聞かず、ほとんどサークル同窓会状態で好きなことぺらぺらしゃべっていた。それでいて、自分たちのスピーチはめちゃくちゃである。

その大馬鹿連中の一人。C山という男のスピーチなど、突然「詩を贈ります」と口上張って、なにを言うのかと思いきや

「君はなぜ泣くの、君はなぜ泣くの。それは空が青いから」

と、およそ結婚式とは関係のなさそうな詩?で披露。披露宴出席者全員困惑状態に陥ったのは言うまでもなく、いちおう詩の解説をしてはいたが、その解説がまた意味不明。しかも「この詩はフランスのなになにという詩人が19◯◯年に発表して・・・」などとそれらしいことを言ってたにもかかわらず、あとで聞きば、実はその場で思い付いた自作の詩だったそうだ。自作というと馬鹿にされそうなんで、適当なこと言ったらしい。しかしよくやる。新郎側の来賓には、芸術を研究してる大学教授やらもいるというのに。

新婦はピアノをずっとやっていて大学でもピアノ科であった。披露宴も終盤にさしかかった頃である。いままでピアノを習わせてくれた両親に感謝をこめてピアノを弾くというプログラムが用意されていた。それはもう感動のシーンである。新婦の御両親は感涙にむせび、そして感動のラストへと進んでいくはずのところ。それなのに、それなのにである。イントロ弾き始めた途端に、これまた馬鹿連中の一角、Kがいらぬことを大声で叫んでしまった。

「あっ、これ大田胃散の曲やんけ!」

そりゃ確かに太田胃散の曲ではあった、これどこかで聞いた曲だ? どこだっけ? 誰もがそう思っていた。それはくしゃみが出そうで出ないときのような、苛立たしく、もどかしい一瞬であった。それが大田胃散の曲だとわかった瞬間、口にだしたくなる気持ちもわからないわけではない。しかし、それを叫んではいけない。それでこっちの席は大爆笑。新婦側の来賓は全員ものすごい形相で睨みをきかし、新郎のひたいにはかつて見たことがないほどの冷や汗、油汗タラタラであった。

さすがの新郎も2次回のときには「おまえらなぁ~」と呆れかえっていたが、まあ仕方ない。類は友を呼ぶのだ。そうこの馬鹿な連中が君の友達なのだ。長い長い披露宴でじっと座って、食事を楽しみつつ、プログラムの流れに身をまかせておくことなど、とてもじゃないけれどできないのだ。どうしても本来の卑しい性分が顔をだす。ついついウケを狙ってしまう。小学校時代の通信簿には必ず「落ち着きがない」と書かれたくちである。

この結婚式で一つ教訓になったことがある。それは絶対にサークル連中だけは呼んではいけないということだ。しかしながら、実は、僕も交友関係の極めて狭い人間である。結局、この連中を呼ばなきゃならんことになるのだろう。となれば、同じような身分の人と結婚するしかなさそうである。

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1998/01/05 00:40

1997年12月20日

散髪哀歌

床屋という言葉は差別用語なんだそうだ。侮辱語になるそうで、TVやラジオでは「理容院」「理髪店」などと言わなくてはならないらしい。しかし当の理髪店のみなさんは、自分の職業を床屋と称されることに差別感を抱いているものなのだろうか? 僕は浅学なので、床屋という言葉がどういう経緯で成立したのかまったく知らない。だから、どうも床屋という言葉が差別用語だと言われてもピンとこないのだ。むしろ床屋と言ってはならないという規制そのものが、差別染みてる気がするし、その言葉を使う方の意識のほうが問題なんじゃないかと思うのだけど、もし理髪店のみなさんが床屋という言葉に差別感を抱いているのなら、やはりそれは使わないほうがいい言葉なんだろうとも思う。まあここでは差別について難しい議論を交わそうなどとは思っていないので、とりあえず「美容院」「理髪店」ということで統一しておく。

それは高校に入学したばかりの頃の話。花の16歳、ちょうど色気づく年頃である。なんとなくパーマをあてるのが、かっこいいのではないかと思っていた。一念発起、初めて美容院に出向き、パーマをあてることにした。いろんなヘア雑誌をみて、自分に似合いそうなものをさがし出し、それを切り抜いてもっていった。たしか保坂尚樹がモデルになっていたと思う。おいおい!というつっこみが聞こえてきそうだが、僕だって、自分の顔が保坂尚樹と少しでも似ているとは思っちゃいない。ただそのパーマがかなり軽めの「部分パーマ」のようなものであり、あまり長くない髪でもできるというようなことが書いてあったので選んだのだ。初めての美容院にとまどいながらも、明らかにオカマと思われるお兄さんに、その切り抜きを渡し、こんな風にしてくださいと注文した。

お兄さんはしげしげと眺め、無言で作業を開始した。美容院も初めてであれば、パーマも初めてである。大いに緊張しつつ、言われるがままに「ハイ、ハイ」と答えていた。何を聞かれていたのかもまったく覚えていない。多分、その髪型に仕上げる上で、重要となることを聞いていたのだろう。切り抜きはあったものの、大きな写真ではなかったし、馬鹿なもので、切り抜きなどせず、雑誌ごともっていけば、その髪型の全体像を見せることができたのに、下手に切り抜いていたったものだから、ある角度からの写真だけになってしまった。多分、お兄さんは、その写真からは見えない部分をどうするか聞いていたのだろう。僕にしてみれば、全体像はすでに他の写真からインプットされているからわかっているのだけど、お兄さんにはなかなか判断つけにくい。しかし僕は緊張からか、そんなことにまで思考が及ばず、けっきょくお兄さんの言いなり、思うがままに進めさせてしまった。

途中から少しおかしいとは思っていた。部分パーマのはずなのに、頭全部にロッドをまきつけていたからだ。しかし何にしても初めての経験なので、そんなものなのかも知れないと自分自身に言い聞かせた。というより、臆病な人間なので、疑問に思ったことをすぐに問い合わせるということができないだけなのだが。なにせ、典型的な日本人体質なのだ。恥ずかしいばかりである。

パーマ液をかけ、待つこと数十分。ロッドがはずされ、洗髪がはじまり、そしてドライヤーがあてられた。髪が乾いていくにしたがって、どんどん不安が大きくなっていった。どこで完成なのか、これが完成なのか? 僕は焦った。ここからまだ何かするんだろう。何かするんだろう。しなきゃいけないぞ。と心のなかでしきりにつぶやいた。

しかし、お兄さんは非情にも「ありがとうございました。」と終止符をうってしまった。
僕は別人と向き合っていた。鏡にうつる姿は、どうみても数時間、数分前の僕とは別人であった。いったいあの切り抜きをどう見れば、こんな髪型になるのか? 不思議でならなかった。しばらく立ち上がれず、しばしば、その奇異な髪型をつけた自分を見つめていた。

「はじめてパーマをあてると、みんなこんな風になるもんなんですよ。」
あらかじめ用意していたかのようにお兄さんは言った。
「お客様の場合は、髪も固いですし。」
お兄さんは満足そうである。何を言ってるんだ!こんな風になるならなるで、はじめから言ってくれ!。それならパーマなどあてなかった。うぅ。泣きそうになった。

その髪型はたとえて言うなら、子供3人を育て、結婚当時より20Kg以上も太ってしまった、どこにでもいるような50歳そこらのおばちゃんのそれであった。所謂、おばちゃんパーマである。その昔、デビュー当時のトシちゃんがやっていたあれである。アニメならガンダムのアムロである。もう少しでアフロである。違う!違う!違う!切り抜きと全然違う!僕は心のなかで叫んだ。しかし、勇気のない僕は返す言葉もなく、店員に言われるがままに、1万円ばかりのお金を支払っていた。

帰り道、隠すものもなく、そのさらけだされたアムロヘアーを、すべての人が笑っている気がした。

悲劇はここで終わらない。僕は無知であった。ストレートパーマというものを知らなかった。ストレートパーマなるものがあることを知っていたなら、そんな愚かな行為はしなかった。

このままでは明日学校にいけない。こんな髪型で登校するぐらいならハゲのほうがましだ。すでに一度、友達との賭けに負けてハゲをしていたので慣れている。ハゲで笑われるのはかまわないのだ。むしろそれは笑われるためにやったのだという言い訳がきくからだ。ところがだ。パーマをあてて失敗、笑いものとなると、それは格好つけようとして、笑いものになるわけである。これは恥ずかしさ100倍だ。

僕はそのまま別の理髪店に飛び込んだ。やはり美容院などというところはいけない。オカマのお兄さんがいるようなところはだめだ。鬚そりもないなんてサービス精神が不足しとる。男は理髪店に限るのだ。

「ハゲにしてください。」僕は言い放った。中学は野球部である。ハゲだったのだ。慣れたものだ。
「どれぐらいの長さで?」理髪店の親父はもちろんオカマではない。鬚のこい、いかにも職人というようなおっさんである。
「スポーツ刈りを少し短くした感じで」切り抜きなどはいけない。やはり説明はこうでなければいけない。

あんなに時間のかかる、あんなにクサイ液をかける、あんなに高い料金のパーマなんてものは駄目だ。やはり散髪は30分そこらで終わらなくてはいけない。バリカンこそ命。

しかし・・・・ できあがった髪型をみて、また僕は呆然とした。
いや、髪型がどうのこうのというわけではない。おっさんは明らかに僕の要求通りの髪型に仕上げてくれた。違っていたのは、僕の髪がパーマをあてた直後だったということだった。

パーマをあてるのに使ったロッドの形がきれいな直線で、僕の頭に描かれていた。縦横にのびる線はまるでナスカの地上絵である。

「なんやこれ、パーマの跡がついてしもたなぁ」おっさんは照れくさそうに笑っている。
「◯×できるで、これ」しょーむないギャグまで飛ばしてる。他人事だと思ってこの野郎!

僕は途方にくれた。すべてあのパーマが悪いのだ。二度とパーマなんてかけるもんか! この世からパーマなんてなくなってしまえばいい。

それでも日は昇る。学校は始まる。まさか髪がのびるまで登校拒否を決め込むわけにもいかず、当然ながら、僕は学校中の笑い者とかした。僕の髪型みたさに、他のクラスや上級生までもの見にくるありさまであった。

あの日のことトラウマとなった。あれからというもの、ヘア雑誌も買っていないし、凝った髪型にしたこともない。当然、美容院にも行っていない。多分、美容院には二度といかないだろう。もちろん切り抜きなど滅相もない。

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1997/12/20 12:37

1997年12月16日

勝負師

図工の時間であった。
秋の運動会をひかえては運動会のポスターを描くというのが課題となっていた。すでに下絵は完成していて、あとは着色を施すだけであった。

「なぁなぁ、どれぐらい少ない色数で描かるか勝負せぇへん?」
隣のケンちゃんがまた馬鹿なことを言ってきた。この男、とにかくいつもクダラナイことばかり考えている。僕はケンちゃんと同じクラスになり、すぐに大の友達になった。なにせその思考のベクトルが、きわめて似ていたからだ。

「いいよ。やろうやろう。」
僕もこういうクダラナイことが大好きなので、ついつい話にのってしまう。

もちろん色数が少ないほうが勝ちなわけだが、そうなると一色も使わない、つまりエンピツでの下書きで完成としてしまうということもできるので、とりあえず、必ず最低1色は絵の具を使うということにした。また、例えば、青と赤をまぜて紫色をつくった場合でも、使った色は青と赤だけとみなすことになった。

僕はとりあえず2色を目標にした。そもそもこの勝負のポイントはどの色を選んで、いかにうまく混ぜ合わせることで、運動会を表現するのか?というところにあると考えていた。運動会といえば、紅白で戦うので、赤色は絶対に必要だろう。白は画用紙の下地を使えばなんとかなる。しかし下手に他の色を選ぶよりは、赤と白の絵の具で混ぜ合わせてつくる色だけでもかなりの表現が可能である。僕はすぐに白と赤の絵の具を使うという決断を下した。

僕が描いた下絵は、紅白にわかれて玉入れ合せんをしているところに、「どちらもがんばれ運動会」というロゴをいれたものだった。「どちらも」という部分を「どち」を白「らも」を赤にして、紅白をかもし出そうと考えていた。しかし玉入れの図だけにグラウンドの部分や、空、人などに色をつけなければならない。人は白と赤で簡単に肌色がだせるので苦労はいらないのだが、青色は白と赤ではどうやってもだせない。仕方ないので、空をピンクにし、地面はオレンジっぽい色にした。色をつけていくうちに、これはやばいなという気がしてきた。やはり2色ではかなり無理がある。2色で完成させることはできたが、これを先生が見て、どう思うか、そればかりが心配でならなかった。どう贔屓目にみても、ふざけてるとしか思えないような見栄えである。それが現代美術の授業ならまだしも、なにせ小学校の図画である。こんな配色をほどこした絵などは誰も描かない。他の人はみんなきちんと色を塗っている。たった2色でつくったがために他の人よりかなりはやく完成してしまったが、先生のところにもっていく勇気がなく、どうしようかこうしようかと思案にくれながら、完成したポスターをずっと眺めていた。

すると、不思議なものである。だんだんと目が慣れてくるのか、奇異と思われたその配色も、まぁいいかぁという気がしてきた。ただたんに面倒くさがりの本性がでただけなのかもしれないが、いまさら描き直すのも面倒だ。日本の子供はたいてい太陽を赤く描くが、アメリカの子供は黄色に描く、アフリカのある地域では虹が3色だったりする。そう、自然界の色など文化やら社会やらによってその見え方は違うのだ。などと文化人類学的なことを考えたわけでもないのだが、まぁ空がピンクで何が悪い、地面がオレンジで何が悪いと、開き直りの境地に達してしまった。よしこれで提出してやれ。

そんな時である。ビリッ! という炸裂音が耳に飛び込んできた。決して電気ショックを与えたときの音ではない。どう聞いても紙をやぶいた時の音だ。ビリッ!という音に続いて、聞こえてきたのは、聞き慣れた怒鳴り声だった。

「これ何! なにをふざけてるの! 書き直しなさい!」
眼孔鋭い先生が睨みつけるその先にいたのは、ケンちゃんであった。

先生は破いたその画用紙を空に放り投げた。そしてケンちゃんの頬に平手打をかました。クラス全員の視線が先生とケンちゃんに集中した。ケンちゃんはどうやら一足先にポスターを完成させて、先生のところに提出しにいったらしい。しかしそのポスターを見るや、先生の怒りは爆発したというわけだ。

僕の席からは床に落ちたケンちゃんのポスターは見えない、しかしそのポスターを見た数人の生徒がクスクスと押し殺した笑い声をたてている。カラダが震えている。笑っていはいけないと思いつつどうしても笑わずにいられない。どんなポスターなのだ? 僕は気になってしかたない。

一人の生徒がやぶれて2枚の紙とかしたポスターを拾い上げて接合した。そしてクラス中のみんながみえるように、かかげてくれた。その途端クラス中が大爆笑につつまれた。

ケンちゃんの絵もどうやら「玉入れ」の図のようであったが、それがわかるのは、エンピツの下書き線がかろうじて示しているにすぎず、実際遠目に見ると、それは一色で塗りかためられたただの色画用紙にしか見えなかった。
ケンちゃんはなんと青一色でポスターを描いてしまったのだ。ひたすら青い絵の具を塗っただけである。これなら着色するのもしないのも一緒だ。むしろ着色しない下書きのままのほうがいい。図案は僕のものと似ていて、玉入れの図に「がんばれ!運動会」という見出しがついている。しかし青一色で塗りかためられたそのポスターからはどう見ても「がんばれ!」という感じはでない。むしろけだるさとやる気のなさがぷんぷんする。運動会だというのに、なんでわざわざ青なんて色を選択したのか。

「なんできちんと色を塗らないの!」先生の怒りはまだおさまらないようだ。
反省しているのかしていないのか、ケンちゃんはうつむいて無言である。
「説明しないさい!」
向かい合った先生とケンちゃんの緊張感が、教室中を包み込み、いままでその絵をみて大笑いしていたものたちも声を殺した。教室中が静まり返った。僕一人がびくびくしていた。いかに色数を落してポスターがかけるかという勝負をしていたから、とその理由を言ってしまえば、先生の怒りは当然ながら勝負の相手である僕にも向けられるだろう。そして、僕の絵を見て、その怒りにさらに拍車がかかるのは目に見えている。

しかしケンちゃんは何も言わなかった。

「もういいです。わかりました。書き直しなさい!」先生は諦め、ケンちゃんを席に返した。僕は少しほっとした。これは絶対に先生の目にふれてはならないとすぐにいままで描いていた絵を仕舞込んだ。仕方ない。もう一度書き直そう。

席にかえってきたケンちゃんに聞いてみた。
「いくらなんでも青一色はまずいやろう」
ケンちゃんの頬は真っ赤に染まっている。よっぽどきつく殴られたのだろう。
「いやぁ、絶対に負けないためには一色じゃないとだめやろう。絵のなかで空が占める部分が一番でっかいしなぁ、だから青にしとこうと思ったんや」
ケンちゃんは飄々と言ってのけた。ケンちゃんには絵の具を混ぜるというような発想は元からなかったようだ。とにかく1色にしてしまえば引き分けはあっても、絶対に負けない。なんという勝負師か!
ケンちゃんは机に新しい画用紙をとりだし、ふたたびエンピツで下絵を描き始めた。
「今度は、青色を水で薄めて、濃淡だすわ。今のはあまりにもストレートすぎたわ。ヘヘヘヘ。」
ケンちゃんにとってまだ勝負は終わってなかったのだった。

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1997/12/16 12:36

1997年12月15日

猫退治

3、4年前ぐらいかな、あの怪し気なペットボトルが町のいたるところで目にとまるようになったのは。すごいブームだったね、あれは。ブームとしてとりあげられてなかったかもしれないけど、いやいや、「たまごっち」なんかよりはずっと流行ってたんじゃないかな。
あれ初めて見たときは、何なのか全然わからなったな。なんかのおまじないか、新興宗教かなにかとか思ってたもの。たんなる猫よけだったんだけど。あの頃って猫が爆発的に増殖したりしたんだろうかね。野良猫なんて、今も昔もかわらないぐらいいると思うんだけど、なんでいまさらみんなして、「野良猫いりません!」なんて主張するように、あんなことしたんだろう? 不思議だ。
実際、猫よけとしての効果はあったんだろうか? 猫は夜行性だから、ペットボトルが陽光できらきらするのを嫌うってのが、猫よけになる理由だったみたいだけど、僕が知る限り、「なにかしら?」というような感じで少々びっくりしてる猫はいたたものの、べつにあれで苦しんでる猫とか、あれをさけて歩いている猫とか見たことなかったな。多分効果ないんだろう。あったら今でもみんな続けてるはずだろうし。

僕の実家ではいまだに「猫よけ」が設置されているんだけどね、これが尋常じゃないんだな。玄関先から庭まで、ほとんど家主さえも足の踏み場がないぐらいペットボトルがおかれてる。どう見ても猫よけというよりは、トチ狂った魔除けなんだな。どっからそんなに集めてきたんだってぐらいものすごい数のペットボトルでね。ほらよくテレビとかでマッチ棒やらあき缶やらでお城つくりましたぁとかやってるでしょう、ほとんど「それ」状態。庭にペットボトルじゃなくて、ペットボトルの庭なんだね。僕の友だちも家にくるなり大爆笑、腹がいたくなるほど笑いがこみあげてきたみたいで、玄関先でうずくまったりしてね。猫より人間にきいたみたい。

おまけにね、ペットボトルだけならまだしも、なぜか正露丸の臭いが漂ってくる。それもそのはず、「猫は正露丸の臭いに弱い」というようなことを誰かに吹き込まれたみたいでね、家の周りに正露丸2本分ぐらいまいちゃったらしい。誰がそんなこと言ったか知らないけど、ほんと学のない人にいいかげんなこと言っちゃいけません。まあ信じるほうも信じるほうだけど、ほんとおそろしいことするものだね。そんなことしたらどうなるかってこと子供でもわかると思うけど。当然ながら、猫より家主や近隣の住民やら、ようするに人間のほうが多大な影響を被っちゃったと。ものすごくくさいからねぇ。だって、正露丸って、あまりにも臭いから、口にするときでも、できるかぎり口内にある時間を短くして、すぐに喉に通しちゃおうとかって思うでしょ。すぐ喉に通しても、それでも口に残るぐらい強力な臭いがあるというのに。あの強力な粒を何百っ個ってまいたんだから。そりゃ臭いよ。

こんな過剰とも思えるようなペットボトルと正露丸攻撃で野良猫が退散したかっていうと、全然そんなことなくて、家の塀とかをゆうゆうと歩いてたりするんだな。もしかしたら息とめたりしてるのかもしれないけどね。

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1997/12/15 00:00