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1997年12月04日

忘れ物王

学校の頃から「忘れ物」には定評があった。
僕のクラスでは、みんなの忘れ物数をカウントして、月間、期間でチャンピオンをきめたりというなかなか楽しいことをしていた。一番忘れ物が少なかった人と、多かった人をそれぞれ選出してミニ賞状を授与する。忘れ物が一番多かった人には罰ゲームみたいなものが待っていて、たしか教室前の廊下を忘れ物数×何十回という感じで、ふき掃除をしなければいけないとか、そういうことだったと思う。

忘れ物の数は自己申告制で、各人の机の右隅には今日の忘れ物数を「正」の字で数えるための紙がセロテープで張り付けてある。忘れ物がみつかったら、みんな素直にこの紙に棒線を一本づつ足していく。そして、終わりの会で、「今日の忘れ物数」をひとりづつが申告していき、それが「忘れ物グラフ」にしるされていく。
忘れ物グラフは教室の後ろ扉を入ってすぐのところに貼ってあり、縦軸が忘れ物数、横軸が生徒の名前となっていて、忘れ物の数だけその生徒の名前列に赤シールをはっていくようになってた。
これはなかなか楽しい試みだった。僕はこういうクダラナイことが大好きだ。子供というのは概してみんな好きなようで、誰も虚偽の申請をするものもいなければ、こんなのくだらねぇと冷めた態度で規律を乱すものもおらず、みんな暇があればグラフを眺めては、ああだこうだと話がはずませていたものである。

忘れ物グラフは一ヶ月ごとに新しくなるのだけど、当然ながら月はじめはみんな横一列で、各人きれいなスタートという感じである。ところが月も半ばにさしかかってくると、一人だけ頭一つ飛び出す奴がいる。競馬でも競輪でもだいたい鼻をとったものは、終盤で息切れして、後続から抜かれていくものなのだけど、このレースの場合はたいがい、そいつはそのまま圧倒的な強さで他をどんどん引き離してしまう。その生徒ってのは何を隠そう僕のことなんだけどね。「わたしの記憶が確かならば・・・・」って、料理の鉄人ではないけれど、5年、6年の2年間、総忘れ物品数は断トツだったはずだし、月間最多忘れ物品数、学期最多忘れ物数などの数々の華々しい記録ももっているはずだ。いまならきっと忘れ物界のイチロー、安打製造機ならぬ、忘れ物製造機なる異名をとっていたに違いない。もう10年おそくうまれていればと、とても口惜しいばかりだ。

何をそんなに忘れたかと聞かれると、こまる。
へんなオチをつけてるわけではないのだけど、ほんとに何を忘れたのかさえ忘れてしまってるからだ。要するにおそろしく忘れっぽい人間なのだろう。

筆箱や下敷きを忘れるのはざらだったに違いない。宿題は家でやったという記憶がまったくないので、たぶん毎日忘れていたのだろう・・・・ というか宿題はわざと忘れていたに違いないのだけど。実際、母に聞いてみると、5年のとき担任から、「しょういちろう君は一度も宿題をやってきたことがない」と言われたらしい。

とにかく、毎日のように何かを忘れていた。

僕の忘れ物史のなかでも、とりわけ印象深いひとつの忘れもの事件がある。
たしか5年生のときの遠足だった。秋だったか春だったかは覚えていないし、どこにいったのかも覚えていない。とりあえず、山? 高原のようなところにいった。

確か、3度休憩だか、見学だかをしたのだ。上りに1回、頂上で昼食をかねて1回、下りで1回だったと思う。その3回の休憩のすべてで、自分のリュックサックを置き忘れた。つまり休憩ごとにリユックサックを持たずに、次の休憩/見学ポイントにむかったのである。これはもう常識では考えられないことだが、ほんとの話だから仕方がない。事実は小説より奇なり、なのだ。

1回目のリユック忘れに気がついたのは、頂上についてからだった。弁当をだそうと思ったときになってはじめて気づいたのである。隊列を組んで歩いていたのだから、後ろを歩いていた友だちが気づいてくれそうなものだが、誰ひとり気づいてくれなかった。昔のことなのでわからないが、今思うに、歩きがてら荷物持ちごっこなどをする連中がいっぱいいたので、その一人に間違えられ、リユックを持っていないことも不思議に思われなかったのではないか?

はじめは家に忘れてきたと思った。これはよく覚えている。
よく学校にランドセルを忘れて行ったことがあるので、それと同じようにリユックごと忘れたと思ったのだ。
先生に言いにいくと、「ゆで麺くん持ってたやないの~」という返事。「さっきの休憩場所に忘れてきたんやわ~」 先生はかなり呆れていた。結局、先生と一緒に、1回目の休憩場所に戻った。案の定、木のふもとにぽつんとひとつだけリユックが放置されていたのだった。

リユックをとって、2回目の休憩場所に戻るともうご飯を食べる時間しか残されていなかった。2回目の休憩場所での休憩時間はかなり長く、お弁当を食べた後は、草原で遊んだりできたのだが、僕には当然ながらそんな時間もなく、先生といっしょに寂しくお弁当を食べた。

走ったり、いそいでお弁当を食べたりしたためかどうだかは知らないが、それでお腹が痛くなったのだ。まあいつものことである。ここぞ!というときには生まれもっての胃腸の弱さが発揮される。

もうすぐ出発、みんな整列!というときになって、お腹がごろごろいいだした。このまま出発するとまた大変なことになるかもしれない、と思った僕は、急いで便所に駆け込んだ。うんこをしていることがバレるのはものすごく恥ずかしかったに違いないが、それでもうんこに行った。
そのときにまたしてもかばんを置いてきてしまったのだ。便器のふもとに。多分、一番最後の便所利用者だったんだろう。人が待っているような便所でうんこができるような図太い神経を持ち合わせていなかったから、みんなが便所からいなくって、最後の最後に急いでうんこをしたに違いない。だから誰からもそのリユックは発見されなかったのだ。

出発してからしばらくして、先生が「ゆで麺くん、かばんわ~?」と声をかけた。
そのときになって、はじめてまたリユックを忘れてきたことに気づいた。「また忘れてきたん~!」先生もびっくりである。こんな馬鹿を見て、いったいどう思ったろう?

ふたたび、先生とリユックをとりに戻った。幸い気づくのが早かったので、すぐに駆け足でもとの隊列に戻ることができた。

そして、第三回目の休憩場所だ。二度あることは三度あるとはよく言ったものだ。
なぜここでも忘れたのか不思議でならない。それほど長く停まっていなかったはずなのに、僕は人知れずリユックをおろして、そのまままた出発したのだ。わざととしか思えない。ほとんど先生に対する嫌がらせである。
2回も同じことを繰り返していながら、まったく反省もせずに、なぜまたリユックを降ろしてしまったんだろう? おそらくしんどいからだ。走ってつかれて、ふぅとリユックを降ろしたのだ。しかも自分ではどこで降ろしたかもわからないまま、降ろしてしまったのだろう。ふたたび出発したときに、今度は、自分でリユックがないことに気づいた。そのとき先生がどんな反応をしたのかはまったく覚えていない。ただそのときの通信簿に「かなり注意力にかける」と書かれたことだけははっきりと覚えている。たぶん普通の人なら1度でさえやらないことを続けさまに3度もやってしまったこの少年を見て、先生も怒りより、哀れみに近い感情を抱いたに違いない。

次の日、「忘れ物グラフ」にすぐさま3つの赤いシールが貼られたのは言うまでもない。

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1997/12/04 12:32

1997年12月01日

素人の手習い

人よりお腹の調子のことを考えている時間が圧倒的に大いと思う。とにかく胃腸の弱さには定評がある。腹が正常なときなんてのは1年のうちごくわずかなものだ。だいたい1週間便秘が続いて、その後、2日ないし3日の下痢に襲われるというサイクルなので、比較的腹の調子がいいのは、下痢がおわった後の2日、3日といったところで、その間に普通に便がでるようになればいいのだけれど、下痢でくるしんだ後だけに少々便所に行きたくても、ついつい後回しにしてしまい、その結果、便秘になってしまう。

胃腸が弱いのは明らかに隔世遺伝だ。胃腸の弱さが遺伝するのかしないのかはわからないが、自分ではそう確信してる。そう確信しないとやっててられないというところがあるのだ。運命だから仕方ないやと諦めてるわけだ。

親父はすこぶる快便男なのだが、祖父はこれまた僕に輪をかけてひどい。
親父はすこぶる快便男なのだが、祖父はこれまた僕に輪をかけてひどい。祖父は今や寝たきり老人で、もっぱら祖母と母が面倒をみているわけだが、とにかく便がでない。もともと便秘症につけ、野菜が大嫌いで、寝たきりになるまえから繊維質をまったくといっていいほどとらなかった。なにせ、15年近くの間、昼にはサッポロ一番の醤油ラーメン(もちろん具なし)しか食べなかったという頑固もんである。自分の嫌いなものはどんなに健康によいと言われようが、それを食べなければ死ぬとまで言われようが絶対食べない。その結果、寝たきりになり、ろくに運動もできなくなった今となっては、地力では便をすることが不可能になってしまった。現在、祖父の便は一週間に一度カンチョウを行うという方法で処理されている。そんなこんなで15年近く生きているのだから人間ってのはなかなか強い生き物である。

汚い話なので気持ち悪い思う人はこれ以上読まないほうがいいとあえて忠告させてもらうが、祖父のカンチョウで母と祖母が大失敗を犯したことがあって、その話をしようと思う。

その日は祖父のカンチョウの日だった。カンチョウはだいたい母と祖母の手によっておこわなわれる。二人とも、もう慣れたものだ。なにせ、10年近くそんなことを繰り返してるのだ。目をつぶってても肛門に一撃ってな感じである。

まあその日もいつもと同じようにカンチョウが行われ、祖父の腸にたまった便がかきだされるはずだった。ただ、その日違ってたのはカンチョウ液がいままでのもとは違っていたことだった。カンチョウ液自体は行きつけの病院でまとめてもらってくるものを使用していて、その日もその病院でもらってきたカンチョウ液だったのだが、その病院にカンチョウ液を卸している業者がかわったかなにかの理由で、メーカーがかわったのだ。

母や祖母もそうなのだが、とにかくうちの家族というのは説明書嫌いである。なにか新しい製品を買っても、ろくに説明書を読むということがない。だからいつまでたってもその製品の機能をフルに活用することができず、自分のわかる範囲でしか機能を使わなかったりする。もちろん僕にもその血は脈々と受け継がれていて、例えば、プラモデルを買っても説明書を見ないで無理矢理つくったりする。順序通りにことを処理していくのが苦手なので、わかる範囲からどんどんつくっていっちゃうのだ。そうするとどうなるか? ガンダムのプラモデルが一時期流行ったが、僕のつくったガンダムはいつも手や足といった、本来なら可動するはずの部分が動かない。手なら手を先につくり、足なら足、胴という具合につくっていった後、胴と手がうまくつけられないことになり、仕方なしに無理矢理接着剤でとめてしまうからだ。

とにかく母も祖母も、カンチョウ液が多少かわったことには気づいても、まえと同じだろうぐらいにしか考えていなかったし、当然ながら説明書を読まなかった。それが祖父にとっては悲劇となった。

そのカンチョウ液がそれ以前のカンチョウ液と大きく異なっていたのは、その外見である。以前のものに比べ、肛門に入れる部分が極端に長いのだ。以前のものがヤクルトのストローならば、今度のはマックシェイクのストローである。

なにが起こったかわかった人は慧眼である。

つまり、母と祖母はその肛門に入れる部分を根元まで肛門のなかに押し込まなければならないものだと思っていたのだ。確かに、以前のものならそれでよかったわけだ。長さもそれほどではないし、根元まで入れて液を注入するという方法で正解だった。しかし、今度のは、説明書によると、その先5cmばかりをお湯であたため、肛門に差し込むというのが正しい使い方だったのだ。当然ながらお湯であたためるなどということもせず、無理矢理その長い注入口を祖父の肛門に差し込んでしまった。

固定観念というのは恐ろしいものである。母や祖母も「ちょっと長いなぁ。これ?」ぐらいには思ったかもしれない。しかし以前までのやりかたがそうであり、しかもそれを何十年と続けてきた彼女たちにとっては、長さ云々よりも、むしろ、しっかり根元まで差し込むということのほうが重要だったのだ。

祖父は悲鳴をあげたが、母と祖母はそんな祖父をおさえつけまでし、見事、根元まで差し込んでしまった。祖父の肛門からは便だけでなく、血までも溢れだしたと聞く。祖父がそれ以降、カンチョウ嫌いになってしまったのは言うまでもない。

いくら便秘になっても、素人にだけはカンチョウはしてもらいたくないものである。

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1997/12/01 16:11