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2006年10月22日

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ITmediaのこの記事を読んで思わず購入。これはかなり便利じゃないでしょうか。


厚みのある本でも押さえられるクリップ



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2006/10/22 23:00

2006年01月14日

京商、ヒルズに新業態「ラジコンバー」-ミニサーキットも

シブヤ経済新聞 - 広域渋谷圏のビジネス&カルチャーニュース - 京商、ヒルズに新業態「ラジコンバー」-ミニサーキットも

ラジコン製品の製造・販売を手掛ける京商(厚木市)は2月11日、同日開業する複合施設「表参道ヒルズ」本館地下3階に同社初の旗艦店となるR/Cサーキットバー「KYOSHO OMOTESANDO」(TEL 03-5785-0280)を開業する。

かなり気になる。ラジコンは定期的に買いたい熱がもりあがってくるのだけれど、買う間際になると、でも一人で遊んでもなーと躊躇してしまう。こういう形態のお店ができたら、ラジコンに興味ない人でも、とりあえず新しい遊びの一形態として、買ってみよっかという人も増えるんじゃないだろうか。
京商は、小学校時代からあこがれのメーカーだ。田宮のモデルより洗練されていて、軽くて、早い。小学校時代はスコーピオンが最も好きなラジコンカーだった。
最近も、ミニッツシリーズはかなり欲しい。ミニッツだったら手軽だし。でも京商らしい凝ったつくりになってるし。社員の誰か買ってくれないかなぁー。みんな買ってレースしようぜー。
ちなみに、随分前から、ボクはミニッツタイムという、ミニッツシリーズのブランディング&ファンサイトが大好きだ。すごく良くできたサイトで、このサイトを見るたびにミニッツを買いたくなる。ミニッツシリーズで、ぜひローバーのMINIを出して欲しいものだ。そしてら絶対買うのだけどなぁ。

ちなみに、ミニッツシリーズやラジコンは以前紹介したけど、こちらのショップがいい。
すごく説明が親切だし、気が利いている。

ラジコンカー専門店レインボー

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2006/01/14 20:27

2004年06月01日

家に帰ってから。英語学習

久々の更新。
特に忙しかったというわけではなかったのだけれど、自宅に帰ってからの英語の勉強時間を少し大目にとるようにしたってこともあって、なかなかまとまった文章を書く気になれなかった。「大目にとる」ったって元々が20分とか30分ぐらいだったんでしれた時間だ。
英語の勉強は毎年毎年3月、4月はやる気まんまんで望むのだけれど、ゴールデンウィーク明けにはすっかり萎えてるということを繰り返してきた。ところが今年はGW明け以降むしろ時間を多くとるようになり、且つ1日も休んでない。我ながらすごいなぁと思う。フランクリン・プランナーを使うようになったってことも影響しているんだろうけど、結局は気分の問題だろう。やり続けてたら、やらない日があるのが気持ち悪くなる。それだけだ。

今はだいたい1時間~1時間30を英語学習にあててる。たいしたことはやってない。精読(聴いて書き取る/書き取れなかったところをチェックする、その後はシャドーイング)と単語覚えることをやってるぐらい。精読したものはほとんど最終的には丸暗記する。

こんなことで英語のレベルがあがるのかどうか疑問だが、あまり難しいことやってもどうせできないので出来るレベルでやるしかない。
ただ「聞き流すだけ」とか「英語のシャワーを浴びる」とか、そういうものって僕はあまり信用してない。たくさん聴けばわかるようになるってのはうそじゃないだろうか。子供が言語を覚えるときのたとえがよくでてくるけども、すべての環境がその言語でできあがってる世界に身を投げ出されていることと、ほとんど日常では使わない言語を新しく覚えようというのでは、まったく違うものじゃないかと思うのだ。もちろんたくさん聴くに越したことはないだろうけど、幼児や子供が言語を覚えていく過程と決定的に違うのは、多分、その言語のなかでしか思考できない状況でその言語を大量に浴びているかどうかというところじゃないかという気がする。
普段の思考が英語で、見るもの聴くものほとんど英語で、否応なく英語内での考えることを強いられないと、ただ聴いているだけでは本当に理解できるようにはならんのじゃないかと思う。

だからといって精読が良いのかどうかはわからないけど。

帰宅後のスケジュールってのはいつも決まっている。早く帰ろうが遅く帰ろうが30分~1時間は同居人と話したりしながら、プロ野球ニュースやらとりあえずテレビを見る。あるいは掃除、猫と遊ぶいずれか。その後、英語をやる。終わったらインターネット。ほとんど趣味に近いものだけど、ニュースやらブログやらのチェックをして、蒲団に入る。あとは1時間本を読んで寝る。これでちょうど2時か3時ぐらいになるという感じだ。
朝は6時30にきっかり起きる。うちの家には「爆弾」と呼ばれるおそろしい音を鳴らす目覚まし時計がある。この目覚まし時計で起きないやつはまずいない。取扱説明書にも耳元で絶対に馴らさないで下さいと書かれてるぐらいだ。僕はそれを耳元において寝ている。ほんとに恐怖心でたいてい鳴る前に起きる。なので、寝坊するとしたら「爆弾」を止めたことに安心してそのまま二度寝に入ってしまうときぐらいだ。その後、風呂入る。30分英語の勉強してから出勤。こんな感じだ。

あ、6月1日からなんと町内の地蔵さんの掃除係りになってしまった。朝晩水をかえたり、掃除したり花を変えたりしなきゃならん。1ヶ月間。面倒くさいー。朝と夜の予定の6月は「お地蔵さんの掃除」というタスクが加わることになる。下町に住むとこういうことがあるんで辛いなぁ。

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2004/06/01 20:31

2001年09月09日

目には目を、歯には歯を

随分昔に書いた文章その
今後、ちょっとずつ、いろんなウェブサイトに分散していたものをこちらで一元管理するつもり。で、こんな駄文も。

目には目を、歯には歯を

「目には目を、歯には歯を」なんておそろしい言葉だなぁとふと思う。この言葉はハンムラビ法典の196条と200条に由来している。

「もしある市民が、他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければならない」(196条)

「もしある市民が、彼に対等の市民の歯を打ち折るならば、彼の歯を打ち折らなければならない」(200条)

#もちろんちゃんと調べたわけではないので、ほんとにそうかどうかはとり
#あえず責任はもてない。

しかし同じような意味の法令を2つも用意するなんて、よっぽどこいつらは復讐心の強いやつだったのだろう。196条と200条の間の3つの条項も気になるところだ。
でも、今回はそんなことを調べるためにこんな話を持ち出したわけでもないので、あとは自分で調べて頂きたい。

「目には目を、歯には歯を」を下敷きにして、さてさて、ここで言う、前者の「目」あるいは「歯」と、後者の「目」「歯」のどっちが辛いかってことを問題としたい。
精神的には当然前者だろうが、あくまでも肉体的な痛みとしてなら、これはもう確実に後者に違いあるまい。
おそらく前者の「目」が潰されたり、「歯」が折られたりしたときってのはまさか自分がそんな目に遭遇するなんて思ってなかったりすることが殆どなのではないか。知らぬうちにそうなったときとも痛みは同じようなもんだろうが、

骨を折ったり、
爪を剥いだり、
完全に乾燥しきっていないカサブタをむいたり、
弁慶の泣所で思いっきり金属バットを蹴ってみたり、
瞼と眼球の間に針を刺し込んだり


なんてことを「意識的」にやったりするぐらい強靭な精神を持った人間なんてそうそうはいないだろうが、そういう目にあってしまって、痛くて痛くてたまらない状態を耐え抜く人は、過去には居たに違いない。
何を言いたいのかよくわからんが、まぁ、自分で自分の腹を切った日本人ってのはすげぇなぁーと思う。

んでもって、Aさんに目を潰されたり、歯を折られたりしたBさんは、その仕返しにAさんの目を潰したり、歯を折ったりするわけだけども、そのときの Aさんの恐怖足るや想像を越えるものがあるなぁと思うのだ。

"そうなる"と分かっていながら抗えない
ということの精神的な辛さとは想像以上のもんだろう。

大学の時、毎日20時間ぐらい寝ているC山という男がいた。
この男、Dというやつのマンションに居候して、いつのまにかDの寝床のベッドを占拠してしまった。ほとんど大学にも行ってなかったC山は、ベッドの上でほぼすべての生活をすませていた。便所と飯に行く以外はずっとごろごろである。

その日は、僕もDの部屋でごろごろしてたのだが、いつものようにベッドはC山が占拠していた。
そのC山の寝姿があまりにも気持ちよさそなので、ちょっと悪戯がしたくなった。

寝ているときのC山の寝息は比較的ストロークの長いもので、大きく息を吸って....深呼吸みたいな感じなのだ。そのストロークで、C山の鼻は大きく開いたり、閉じたりする。
息を吸う-鼻が開く。息を吐く-鼻を閉じる。この繰り返し。僕も暇人で、しばらくその見事の鼻穴の開閉めをしげしげと眺めていたのだが、ふと手にしていたタバコを見てひらめいた。

タバコの先には、今にも落ちそうな火種の塊が赤々と燃えている。
線香花火の最後を思わせるような微妙なバランスを保っていた。

うーむ。どうしても試してみたい。

一度湧き上がった欲望を抑えきれることなく、僕はそーっとそのタバコを C山の鼻に近づけていった。

そう。大きく息を吸い込むタイミングで、この火種が吸い込まれていく様が見たかったのだ。ほら掃除機とかかけているときに、ちょっとしたゴミが、吸引機にするすると吸い込まれていく様って、なんかうれしくないですかね?
(僕だけか?)

途中で火種が落ちてしまっては元も弧もない。
熱湯をなみなみと注ぎすぎてしまったカップヌードルをこぼさぬようこぼさぬよう運ぶときと同じぐらいの慎重さで、火種をC山の鼻に近づける。

その瞬間である。

まるでスローモーションを見ているようだった。

C山が大きく息をすったその瞬間に、ほんとに火種がすっと鼻の穴に吸い込まれていったのだ。感激! まだまだ燃え盛りの火種?は、C山のちょっと大き目の鼻穴に吸い込まれた。

それから1秒か2秒だろうか。

一瞬時間がとまったかのうような瞬間だった。
あまりにも完璧なその光景を見てしまった僕といえば、もう完全に思考停止である。

いきなりC山が飛んだのだ。
ほんとに飛んだと思うぐらい。飛び起きたのだけど、これまた今まで見たことのない飛び起き方で、ほとんど空中浮遊である。麻原もびっくりだろう。

ウ■ぎゃ◎×?あ2▽×ia$%ai

C山は言葉にならない叫び声をあげた。

C山にしても青天の霹靂。何が起きたのかわからず、この男にしてみればえらく動揺している。

「いたたたったたた。なんじゃぁーこりゃ」

どうやら鼻に問題ありとわかったC山。既に火種は飛び起きた勢いで鼻からは転がり落ちて、若干の灰がベッドを汚す程度だった。 C山は鼻に指をつっこんで、、、、、、

「うわーーーー。鼻毛がないぞーーー」

というような事件の顛末なのだが。この後がたいへんだった。

こんな仕打ちされたら、誰だって怒る。
でもC山は怒らないやつなのだ。怒らないとわかっていたからこそこんなことができたのだが。

C山はとにかく自分にもやらせてくれ!とせがむのだ。
僕がその光景がまるで天国かと思えるぐらい見事だったことを、口八丁手八丁で説明すると、
「俺も見たいっちゃ、見たいっちゃ」
「おまえ、早く寝ろ。寝ろ。寝ろ。俺、やりたい。やらせて」
「あ、じゃぁ別にほんとに寝なくてもいいっちゃ。寝ているフリしてくれ。お願い。でも、大きく息を吸いこんで吐いてを繰り返さないと駄目っちゃ。」
あれだけの仕打ちをうけていながら、なぜかお願いモードのC山。あほだ。

うーむ。「目には目を、歯には歯を」である。
C山の場合、復讐心というよりは興味本位なのだが....

C山の場合、寝ていて意識してないからいいのだ。やられるとわかってて寝られるわけがない。

それ以降、僕はC山の前で寝顔を晒していない.....

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2001/09/09 02:51

1998年02月02日

親父の本分

はちゃめちゃな親父である。無鉄砲を絵に描いたような男で、思い込みが激しく、こうだと思えば、何でもかんでもすぐに実行にうつしてしまう。そういう性格はいい方面に作用すれば、人をひっぱる力を持った、指導者タイプの人間として崇められるのかもしれないが、時として、常人では想像もつかないような勘違いや失敗をやらかす。

親父は水虫持ちなのだが、僕が小学校の頃は、水虫なんてのは黴菌なんだから、これ吹きかけときゃ治る!と殺虫剤を患部に噴射しては、その痛みこそが水虫に効くのだと言い張っていた。その頃、わが家には水虫を持っていたものがいなかったのと、だれも水虫についての詳しい知識を持ち合わせていなかったことが災いして、しばらくの間誰もその行為をとめようとはしなかった。もちろん殺虫剤を用いるたびに患部は炎症のようなものをおこし、その症状は誰がみても悪化してるようにしか見えなかったのだが、ときにあまりに炎症がひどくなり、患部がかさぶたになってしまうことがあった。親父にしてみれば、それは殺虫剤によって菌が死んだということだったらく、どの殺虫剤はよいだの、あれはダメだのと批評までしていた。まったく呆れる。

また、ほんの少しだが、過って工業用カッターで腕を切ってしまったことがあった。少しとはいっても工業用カッターである。どうみても7、8針は縫わなければならないような怪我だった。普通の人間なら、人に言われなくとも、自分から病院に足を向けるものだろう。ところが、親父は何を思ったのか、母に「縫い針と、細い糸もってこい」と命令した。御察しの通り、自分で傷を縫い付けるつもりだったのである。しかも縫い針と普通の糸で。さらにには、普通の絹糸だと弱いから、釣り糸のほうがいいんじゃないかとまで言い出し、消毒代わりに針をライターであぶっては、ほんとに自分で縫合しようとした。この時は、母とそのとき一緒にいた社員数人によってとめられて、なんとか病院で縫合してもらうこととなったのだが、もし一人のときだったら、ほんとにやっていただろう。おそろしい男である。

親父が言うには、「戦争にいったら、そんなもん、全部自分でするもんや」とのことらしい。なんでわざわざ戦争にいっときのことを想定しなきゃならないのか、その理由はまったくもって不明である。もちろん親父は戦争に行っていない。

しかしただの馬鹿ではない。親父は自営業を営んでいるが、僕が子供の頃はほんと父ちゃん、母ちゃん企業で、小さな小さな会社だった。それがいつのまにか社員何十人をかかえるまでになってしまった。中小企業なんやらかんやらからの中小企業診断で1位をもらったりもしたらしい。えらいもんだ。社長というのは、これぐらい無邪気で、ある意味大胆なところを持ってなきゃならんのだろう。

こんな親父を見ていると、僕にはとうてい社長などというポストは勤まりそうにもないと痛感する。

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1998/02/02 02:12

1998年01月07日

プロストそっくり

世の中には自分と似た人が3人はいるというような根拠はまったくないのだろうけど、まぁそんなもんかとついつい納得してしまう諺がある。諺と言ってしまえるほど、古くから多くの人々に言いならわされてきてるわけでもあるまいが、この際、気にしないでいただきたい。

この「似ている」というのは、おそらくそっくりでなければならないのだろう。なんとなく似ている程度なら、3人どころか、何千人といるはずだし、人に限らず、動物やモノにもいるものだ。落合博満はコアラに似ているし、衣笠は北京原人に似ている。やしきたかじんはポットである。こういうのは「なんとなくレベル」にすぎない。たった3人しかいないという「似ている」は、「そっくりレベル」でなければならないのだ。このレベルというのは、誰がみてもすぐにあっ!と頭に思い浮び、しかも、もしかすると遠い昔に生き別れた双児なのではないかと真剣に疑ってしまうぐらい似ていなければならない。

予備校のとき、アラン・プロストのそっくりさんがいた。僕の通っていた予備校は席があらかじめ決められていおり、その決められた席で授業を受けなければならなかったのだが、入学して最初の席の隣にアラン・プロストがいたのだ。これにはびっくりこいたものだ。なにせ日本のしがない予備校に天才F1レーサーのアラン・プロストがいるのだから。彼の場合は、もう見た瞬間に、「あっ、プロストだ」と思ったので、その似方は、完全に「そっくりレベル」であった。まじで僕は「こいつはプロストの日本妻の元で生まれた隠し子なのではないか」と勘ぐったものだ。結局、真相はわからずじまいだが、テレビでF1を見ていてプロストがでてくるたびに、ついつい彼の顔が思い浮かび、そのたびに今でも「やはり息子なのではないか」と思ってしまう。

もちろん、そのそっくりさんは日本人であり、東大阪に住み、大学受験に挑もうとしている普通の18歳の男であったのだが、その顔のつくりはどう考えても日本人離れしていて、だまっていれば誰も日本人とは思わないようなアラン・プロスト顔なのであった。また、驚くべきはその髪であって、彼もまた、アラン・プロストと同じく、雀の巣のような天然パーマであり、これがさらにアラン・プロストそっくり度に拍車をかけていたのだ。
世界に3人しかいないというプロストのそっくりさんの一人はこんなところにいたのであった。彼にとっては、自分のそっくりさんの一人は世界で最も速い男だったのだ。どんな気持ちなんだろうか?

ふと横を見れば、そこにアラン・プロストがいて、真剣に黒板の文字をノートに書き写しているのである。アラン・プロストの顔を知っている人なら話ははやいと思うが、アラン・プロストという人はとにかく神経質そうな顔をしている。いつもなにか思索しているのような少々近寄りがたい雰囲気が顔から醸し出ているもちろんそっくりさんだから、彼の場合もものすごく神経質そうである。とくにわからない問題に頭をかかえて、悩みこんでいる姿は、本物とどこが違うのか!と紛うばかりである。
彼と本物の違いといえば、本物がフランス語をしゃべるのに対して、彼は大阪弁をしゃべることである。ある説ではフランス語と大阪弁のイントネーションは似ているそうなので、彼がボソボソと大阪弁をしゃべれば、みんなプロストだ!と振り返るかもしれない。

結局、彼のやることなすことはすべてアラン・プロストに見立てられて僕と友達連中の格好の笑いのネタ、酒の肴となってしまった。彼が誰かと立ち話をしていると、僕らは「ミーティング中」と呼び、彼がだれかの後ろについて歩いていたりするものなら「スリップストリーム」、昼食は「ピットイン」などとくだらないことを言っては大笑いをしていた。

彼とは3ヶ月近く隣の席だったのにも関わらず、ほとんど会話をかわしたことがない。彼は話かけなければ絶対に自分から話し掛けてこないタイプの人間だったし、僕もそれほど自分から好んで人に話し掛けるというようなことをしないタイプなので、接点がなかったのだ。「どこの大学めざしているの?」というような話をしたときに、「体育大学めざしてんねん」と答えた彼の姿が印象にのこっている。体育大学って運動能力とかそういった試験のほうが重要なのではないのだろうか? こんなところで普通の大学をめざす連中と一緒に勉強していていいものなのだろうか、と不思議に思ったものだ。

結局、彼は予備校を半月でやめてしまった。大学受験をあきらめてしまったのか、それとも体育大学受験のために、なにか運動をしなければならなくてやめてしまったのか、詳しいこと何もわからないが、とにかく、夏休みが明けてから、彼を予備校で見かけることはなくなってしまった。

僕が友達と、「プロスト、リタイヤしてしもたなぁ」「電気系統の故障かなぁ」などと、くだらない会話を交わしたのは言うまでもない。

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1998/01/07 12:42

1998年01月05日

身分の差

大学時代の友人が結婚した。彼とは学科も同じ、サークルも同じで入学してすぐに友達になった。麻雀仲間でもり、競馬仲間でもあり、文学を語り合う仲でもあり、当然ながら馬鹿話し仲間でもある。かなりの男前で、例えるなら、顔は小林薫をよりすっきりさせたという感じ。男の僕がみていても惚れ惚れするような美しい顔している。お嫁さんもかなりのべっぴんさんで、こちらはPuffyの大貫亜美というところか、とにかく美男美女のカップルであり、うらやましいかぎりである。

結婚式、披露宴に行って、つくづく思い知らされたのは「身分の差」であった。
特に新郎新婦、それぞれの友達の質の違いはすごいものがあった。新婦は生粋のお嬢様である。その親類といえば京都大学なになに部の教授だとか、お花の先生だとか、みんな「先生」という肩書きがついてる人ばっかりだ。そんな新婦の友だちともなれば、やはりこれまたお嬢様ばかりなのだ。みんなべっぴんさんだし、お淑やかで、礼儀ただしく、こんな娘がいたらさぞかし両親も鼻高々だろうなぁというような人ばかり。それにひきかえ新郎側は・・・・。僕と同じく新郎も交友関係がおそろしく狭いようで、友人はほぼ全員大学サークルの連中であったが、いまだ大学を卒業してない奴はいるし、卒業して就職したはいいが、6ヶ月で夜逃げしてきた奴もいるし、とまあ僕もふくめてろくな人生をおくっている人間がいない。

そんな連中ばかりである。披露宴にでる料理のようなにキャビアやトリュフといった高級な素材を使った、手の凝った料理など食べ慣れているわけがない。いつもジャンクフードばっかり食べてるものだから舌の感覚が狂ってしまっている。みんな「まずいまずい」とぶーたれながら酒ばっかり飲んでる始末。人のスピーチもぜんぜん聞かず、ほとんどサークル同窓会状態で好きなことぺらぺらしゃべっていた。それでいて、自分たちのスピーチはめちゃくちゃである。

その大馬鹿連中の一人。C山という男のスピーチなど、突然「詩を贈ります」と口上張って、なにを言うのかと思いきや

「君はなぜ泣くの、君はなぜ泣くの。それは空が青いから」

と、およそ結婚式とは関係のなさそうな詩?で披露。披露宴出席者全員困惑状態に陥ったのは言うまでもなく、いちおう詩の解説をしてはいたが、その解説がまた意味不明。しかも「この詩はフランスのなになにという詩人が19◯◯年に発表して・・・」などとそれらしいことを言ってたにもかかわらず、あとで聞きば、実はその場で思い付いた自作の詩だったそうだ。自作というと馬鹿にされそうなんで、適当なこと言ったらしい。しかしよくやる。新郎側の来賓には、芸術を研究してる大学教授やらもいるというのに。

新婦はピアノをずっとやっていて大学でもピアノ科であった。披露宴も終盤にさしかかった頃である。いままでピアノを習わせてくれた両親に感謝をこめてピアノを弾くというプログラムが用意されていた。それはもう感動のシーンである。新婦の御両親は感涙にむせび、そして感動のラストへと進んでいくはずのところ。それなのに、それなのにである。イントロ弾き始めた途端に、これまた馬鹿連中の一角、Kがいらぬことを大声で叫んでしまった。

「あっ、これ大田胃散の曲やんけ!」

そりゃ確かに太田胃散の曲ではあった、これどこかで聞いた曲だ? どこだっけ? 誰もがそう思っていた。それはくしゃみが出そうで出ないときのような、苛立たしく、もどかしい一瞬であった。それが大田胃散の曲だとわかった瞬間、口にだしたくなる気持ちもわからないわけではない。しかし、それを叫んではいけない。それでこっちの席は大爆笑。新婦側の来賓は全員ものすごい形相で睨みをきかし、新郎のひたいにはかつて見たことがないほどの冷や汗、油汗タラタラであった。

さすがの新郎も2次回のときには「おまえらなぁ~」と呆れかえっていたが、まあ仕方ない。類は友を呼ぶのだ。そうこの馬鹿な連中が君の友達なのだ。長い長い披露宴でじっと座って、食事を楽しみつつ、プログラムの流れに身をまかせておくことなど、とてもじゃないけれどできないのだ。どうしても本来の卑しい性分が顔をだす。ついついウケを狙ってしまう。小学校時代の通信簿には必ず「落ち着きがない」と書かれたくちである。

この結婚式で一つ教訓になったことがある。それは絶対にサークル連中だけは呼んではいけないということだ。しかしながら、実は、僕も交友関係の極めて狭い人間である。結局、この連中を呼ばなきゃならんことになるのだろう。となれば、同じような身分の人と結婚するしかなさそうである。

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1998/01/05 00:40

1997年12月20日

散髪哀歌

床屋という言葉は差別用語なんだそうだ。侮辱語になるそうで、TVやラジオでは「理容院」「理髪店」などと言わなくてはならないらしい。しかし当の理髪店のみなさんは、自分の職業を床屋と称されることに差別感を抱いているものなのだろうか? 僕は浅学なので、床屋という言葉がどういう経緯で成立したのかまったく知らない。だから、どうも床屋という言葉が差別用語だと言われてもピンとこないのだ。むしろ床屋と言ってはならないという規制そのものが、差別染みてる気がするし、その言葉を使う方の意識のほうが問題なんじゃないかと思うのだけど、もし理髪店のみなさんが床屋という言葉に差別感を抱いているのなら、やはりそれは使わないほうがいい言葉なんだろうとも思う。まあここでは差別について難しい議論を交わそうなどとは思っていないので、とりあえず「美容院」「理髪店」ということで統一しておく。

それは高校に入学したばかりの頃の話。花の16歳、ちょうど色気づく年頃である。なんとなくパーマをあてるのが、かっこいいのではないかと思っていた。一念発起、初めて美容院に出向き、パーマをあてることにした。いろんなヘア雑誌をみて、自分に似合いそうなものをさがし出し、それを切り抜いてもっていった。たしか保坂尚樹がモデルになっていたと思う。おいおい!というつっこみが聞こえてきそうだが、僕だって、自分の顔が保坂尚樹と少しでも似ているとは思っちゃいない。ただそのパーマがかなり軽めの「部分パーマ」のようなものであり、あまり長くない髪でもできるというようなことが書いてあったので選んだのだ。初めての美容院にとまどいながらも、明らかにオカマと思われるお兄さんに、その切り抜きを渡し、こんな風にしてくださいと注文した。

お兄さんはしげしげと眺め、無言で作業を開始した。美容院も初めてであれば、パーマも初めてである。大いに緊張しつつ、言われるがままに「ハイ、ハイ」と答えていた。何を聞かれていたのかもまったく覚えていない。多分、その髪型に仕上げる上で、重要となることを聞いていたのだろう。切り抜きはあったものの、大きな写真ではなかったし、馬鹿なもので、切り抜きなどせず、雑誌ごともっていけば、その髪型の全体像を見せることができたのに、下手に切り抜いていたったものだから、ある角度からの写真だけになってしまった。多分、お兄さんは、その写真からは見えない部分をどうするか聞いていたのだろう。僕にしてみれば、全体像はすでに他の写真からインプットされているからわかっているのだけど、お兄さんにはなかなか判断つけにくい。しかし僕は緊張からか、そんなことにまで思考が及ばず、けっきょくお兄さんの言いなり、思うがままに進めさせてしまった。

途中から少しおかしいとは思っていた。部分パーマのはずなのに、頭全部にロッドをまきつけていたからだ。しかし何にしても初めての経験なので、そんなものなのかも知れないと自分自身に言い聞かせた。というより、臆病な人間なので、疑問に思ったことをすぐに問い合わせるということができないだけなのだが。なにせ、典型的な日本人体質なのだ。恥ずかしいばかりである。

パーマ液をかけ、待つこと数十分。ロッドがはずされ、洗髪がはじまり、そしてドライヤーがあてられた。髪が乾いていくにしたがって、どんどん不安が大きくなっていった。どこで完成なのか、これが完成なのか? 僕は焦った。ここからまだ何かするんだろう。何かするんだろう。しなきゃいけないぞ。と心のなかでしきりにつぶやいた。

しかし、お兄さんは非情にも「ありがとうございました。」と終止符をうってしまった。
僕は別人と向き合っていた。鏡にうつる姿は、どうみても数時間、数分前の僕とは別人であった。いったいあの切り抜きをどう見れば、こんな髪型になるのか? 不思議でならなかった。しばらく立ち上がれず、しばしば、その奇異な髪型をつけた自分を見つめていた。

「はじめてパーマをあてると、みんなこんな風になるもんなんですよ。」
あらかじめ用意していたかのようにお兄さんは言った。
「お客様の場合は、髪も固いですし。」
お兄さんは満足そうである。何を言ってるんだ!こんな風になるならなるで、はじめから言ってくれ!。それならパーマなどあてなかった。うぅ。泣きそうになった。

その髪型はたとえて言うなら、子供3人を育て、結婚当時より20Kg以上も太ってしまった、どこにでもいるような50歳そこらのおばちゃんのそれであった。所謂、おばちゃんパーマである。その昔、デビュー当時のトシちゃんがやっていたあれである。アニメならガンダムのアムロである。もう少しでアフロである。違う!違う!違う!切り抜きと全然違う!僕は心のなかで叫んだ。しかし、勇気のない僕は返す言葉もなく、店員に言われるがままに、1万円ばかりのお金を支払っていた。

帰り道、隠すものもなく、そのさらけだされたアムロヘアーを、すべての人が笑っている気がした。

悲劇はここで終わらない。僕は無知であった。ストレートパーマというものを知らなかった。ストレートパーマなるものがあることを知っていたなら、そんな愚かな行為はしなかった。

このままでは明日学校にいけない。こんな髪型で登校するぐらいならハゲのほうがましだ。すでに一度、友達との賭けに負けてハゲをしていたので慣れている。ハゲで笑われるのはかまわないのだ。むしろそれは笑われるためにやったのだという言い訳がきくからだ。ところがだ。パーマをあてて失敗、笑いものとなると、それは格好つけようとして、笑いものになるわけである。これは恥ずかしさ100倍だ。

僕はそのまま別の理髪店に飛び込んだ。やはり美容院などというところはいけない。オカマのお兄さんがいるようなところはだめだ。鬚そりもないなんてサービス精神が不足しとる。男は理髪店に限るのだ。

「ハゲにしてください。」僕は言い放った。中学は野球部である。ハゲだったのだ。慣れたものだ。
「どれぐらいの長さで?」理髪店の親父はもちろんオカマではない。鬚のこい、いかにも職人というようなおっさんである。
「スポーツ刈りを少し短くした感じで」切り抜きなどはいけない。やはり説明はこうでなければいけない。

あんなに時間のかかる、あんなにクサイ液をかける、あんなに高い料金のパーマなんてものは駄目だ。やはり散髪は30分そこらで終わらなくてはいけない。バリカンこそ命。

しかし・・・・ できあがった髪型をみて、また僕は呆然とした。
いや、髪型がどうのこうのというわけではない。おっさんは明らかに僕の要求通りの髪型に仕上げてくれた。違っていたのは、僕の髪がパーマをあてた直後だったということだった。

パーマをあてるのに使ったロッドの形がきれいな直線で、僕の頭に描かれていた。縦横にのびる線はまるでナスカの地上絵である。

「なんやこれ、パーマの跡がついてしもたなぁ」おっさんは照れくさそうに笑っている。
「◯×できるで、これ」しょーむないギャグまで飛ばしてる。他人事だと思ってこの野郎!

僕は途方にくれた。すべてあのパーマが悪いのだ。二度とパーマなんてかけるもんか! この世からパーマなんてなくなってしまえばいい。

それでも日は昇る。学校は始まる。まさか髪がのびるまで登校拒否を決め込むわけにもいかず、当然ながら、僕は学校中の笑い者とかした。僕の髪型みたさに、他のクラスや上級生までもの見にくるありさまであった。

あの日のことトラウマとなった。あれからというもの、ヘア雑誌も買っていないし、凝った髪型にしたこともない。当然、美容院にも行っていない。多分、美容院には二度といかないだろう。もちろん切り抜きなど滅相もない。

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1997/12/20 12:37

1997年12月16日

勝負師

図工の時間であった。
秋の運動会をひかえては運動会のポスターを描くというのが課題となっていた。すでに下絵は完成していて、あとは着色を施すだけであった。

「なぁなぁ、どれぐらい少ない色数で描かるか勝負せぇへん?」
隣のケンちゃんがまた馬鹿なことを言ってきた。この男、とにかくいつもクダラナイことばかり考えている。僕はケンちゃんと同じクラスになり、すぐに大の友達になった。なにせその思考のベクトルが、きわめて似ていたからだ。

「いいよ。やろうやろう。」
僕もこういうクダラナイことが大好きなので、ついつい話にのってしまう。

もちろん色数が少ないほうが勝ちなわけだが、そうなると一色も使わない、つまりエンピツでの下書きで完成としてしまうということもできるので、とりあえず、必ず最低1色は絵の具を使うということにした。また、例えば、青と赤をまぜて紫色をつくった場合でも、使った色は青と赤だけとみなすことになった。

僕はとりあえず2色を目標にした。そもそもこの勝負のポイントはどの色を選んで、いかにうまく混ぜ合わせることで、運動会を表現するのか?というところにあると考えていた。運動会といえば、紅白で戦うので、赤色は絶対に必要だろう。白は画用紙の下地を使えばなんとかなる。しかし下手に他の色を選ぶよりは、赤と白の絵の具で混ぜ合わせてつくる色だけでもかなりの表現が可能である。僕はすぐに白と赤の絵の具を使うという決断を下した。

僕が描いた下絵は、紅白にわかれて玉入れ合せんをしているところに、「どちらもがんばれ運動会」というロゴをいれたものだった。「どちらも」という部分を「どち」を白「らも」を赤にして、紅白をかもし出そうと考えていた。しかし玉入れの図だけにグラウンドの部分や、空、人などに色をつけなければならない。人は白と赤で簡単に肌色がだせるので苦労はいらないのだが、青色は白と赤ではどうやってもだせない。仕方ないので、空をピンクにし、地面はオレンジっぽい色にした。色をつけていくうちに、これはやばいなという気がしてきた。やはり2色ではかなり無理がある。2色で完成させることはできたが、これを先生が見て、どう思うか、そればかりが心配でならなかった。どう贔屓目にみても、ふざけてるとしか思えないような見栄えである。それが現代美術の授業ならまだしも、なにせ小学校の図画である。こんな配色をほどこした絵などは誰も描かない。他の人はみんなきちんと色を塗っている。たった2色でつくったがために他の人よりかなりはやく完成してしまったが、先生のところにもっていく勇気がなく、どうしようかこうしようかと思案にくれながら、完成したポスターをずっと眺めていた。

すると、不思議なものである。だんだんと目が慣れてくるのか、奇異と思われたその配色も、まぁいいかぁという気がしてきた。ただたんに面倒くさがりの本性がでただけなのかもしれないが、いまさら描き直すのも面倒だ。日本の子供はたいてい太陽を赤く描くが、アメリカの子供は黄色に描く、アフリカのある地域では虹が3色だったりする。そう、自然界の色など文化やら社会やらによってその見え方は違うのだ。などと文化人類学的なことを考えたわけでもないのだが、まぁ空がピンクで何が悪い、地面がオレンジで何が悪いと、開き直りの境地に達してしまった。よしこれで提出してやれ。

そんな時である。ビリッ! という炸裂音が耳に飛び込んできた。決して電気ショックを与えたときの音ではない。どう聞いても紙をやぶいた時の音だ。ビリッ!という音に続いて、聞こえてきたのは、聞き慣れた怒鳴り声だった。

「これ何! なにをふざけてるの! 書き直しなさい!」
眼孔鋭い先生が睨みつけるその先にいたのは、ケンちゃんであった。

先生は破いたその画用紙を空に放り投げた。そしてケンちゃんの頬に平手打をかました。クラス全員の視線が先生とケンちゃんに集中した。ケンちゃんはどうやら一足先にポスターを完成させて、先生のところに提出しにいったらしい。しかしそのポスターを見るや、先生の怒りは爆発したというわけだ。

僕の席からは床に落ちたケンちゃんのポスターは見えない、しかしそのポスターを見た数人の生徒がクスクスと押し殺した笑い声をたてている。カラダが震えている。笑っていはいけないと思いつつどうしても笑わずにいられない。どんなポスターなのだ? 僕は気になってしかたない。

一人の生徒がやぶれて2枚の紙とかしたポスターを拾い上げて接合した。そしてクラス中のみんながみえるように、かかげてくれた。その途端クラス中が大爆笑につつまれた。

ケンちゃんの絵もどうやら「玉入れ」の図のようであったが、それがわかるのは、エンピツの下書き線がかろうじて示しているにすぎず、実際遠目に見ると、それは一色で塗りかためられたただの色画用紙にしか見えなかった。
ケンちゃんはなんと青一色でポスターを描いてしまったのだ。ひたすら青い絵の具を塗っただけである。これなら着色するのもしないのも一緒だ。むしろ着色しない下書きのままのほうがいい。図案は僕のものと似ていて、玉入れの図に「がんばれ!運動会」という見出しがついている。しかし青一色で塗りかためられたそのポスターからはどう見ても「がんばれ!」という感じはでない。むしろけだるさとやる気のなさがぷんぷんする。運動会だというのに、なんでわざわざ青なんて色を選択したのか。

「なんできちんと色を塗らないの!」先生の怒りはまだおさまらないようだ。
反省しているのかしていないのか、ケンちゃんはうつむいて無言である。
「説明しないさい!」
向かい合った先生とケンちゃんの緊張感が、教室中を包み込み、いままでその絵をみて大笑いしていたものたちも声を殺した。教室中が静まり返った。僕一人がびくびくしていた。いかに色数を落してポスターがかけるかという勝負をしていたから、とその理由を言ってしまえば、先生の怒りは当然ながら勝負の相手である僕にも向けられるだろう。そして、僕の絵を見て、その怒りにさらに拍車がかかるのは目に見えている。

しかしケンちゃんは何も言わなかった。

「もういいです。わかりました。書き直しなさい!」先生は諦め、ケンちゃんを席に返した。僕は少しほっとした。これは絶対に先生の目にふれてはならないとすぐにいままで描いていた絵を仕舞込んだ。仕方ない。もう一度書き直そう。

席にかえってきたケンちゃんに聞いてみた。
「いくらなんでも青一色はまずいやろう」
ケンちゃんの頬は真っ赤に染まっている。よっぽどきつく殴られたのだろう。
「いやぁ、絶対に負けないためには一色じゃないとだめやろう。絵のなかで空が占める部分が一番でっかいしなぁ、だから青にしとこうと思ったんや」
ケンちゃんは飄々と言ってのけた。ケンちゃんには絵の具を混ぜるというような発想は元からなかったようだ。とにかく1色にしてしまえば引き分けはあっても、絶対に負けない。なんという勝負師か!
ケンちゃんは机に新しい画用紙をとりだし、ふたたびエンピツで下絵を描き始めた。
「今度は、青色を水で薄めて、濃淡だすわ。今のはあまりにもストレートすぎたわ。ヘヘヘヘ。」
ケンちゃんにとってまだ勝負は終わってなかったのだった。

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1997/12/16 12:36

1997年12月15日

猫退治

3、4年前ぐらいかな、あの怪し気なペットボトルが町のいたるところで目にとまるようになったのは。すごいブームだったね、あれは。ブームとしてとりあげられてなかったかもしれないけど、いやいや、「たまごっち」なんかよりはずっと流行ってたんじゃないかな。
あれ初めて見たときは、何なのか全然わからなったな。なんかのおまじないか、新興宗教かなにかとか思ってたもの。たんなる猫よけだったんだけど。あの頃って猫が爆発的に増殖したりしたんだろうかね。野良猫なんて、今も昔もかわらないぐらいいると思うんだけど、なんでいまさらみんなして、「野良猫いりません!」なんて主張するように、あんなことしたんだろう? 不思議だ。
実際、猫よけとしての効果はあったんだろうか? 猫は夜行性だから、ペットボトルが陽光できらきらするのを嫌うってのが、猫よけになる理由だったみたいだけど、僕が知る限り、「なにかしら?」というような感じで少々びっくりしてる猫はいたたものの、べつにあれで苦しんでる猫とか、あれをさけて歩いている猫とか見たことなかったな。多分効果ないんだろう。あったら今でもみんな続けてるはずだろうし。

僕の実家ではいまだに「猫よけ」が設置されているんだけどね、これが尋常じゃないんだな。玄関先から庭まで、ほとんど家主さえも足の踏み場がないぐらいペットボトルがおかれてる。どう見ても猫よけというよりは、トチ狂った魔除けなんだな。どっからそんなに集めてきたんだってぐらいものすごい数のペットボトルでね。ほらよくテレビとかでマッチ棒やらあき缶やらでお城つくりましたぁとかやってるでしょう、ほとんど「それ」状態。庭にペットボトルじゃなくて、ペットボトルの庭なんだね。僕の友だちも家にくるなり大爆笑、腹がいたくなるほど笑いがこみあげてきたみたいで、玄関先でうずくまったりしてね。猫より人間にきいたみたい。

おまけにね、ペットボトルだけならまだしも、なぜか正露丸の臭いが漂ってくる。それもそのはず、「猫は正露丸の臭いに弱い」というようなことを誰かに吹き込まれたみたいでね、家の周りに正露丸2本分ぐらいまいちゃったらしい。誰がそんなこと言ったか知らないけど、ほんと学のない人にいいかげんなこと言っちゃいけません。まあ信じるほうも信じるほうだけど、ほんとおそろしいことするものだね。そんなことしたらどうなるかってこと子供でもわかると思うけど。当然ながら、猫より家主や近隣の住民やら、ようするに人間のほうが多大な影響を被っちゃったと。ものすごくくさいからねぇ。だって、正露丸って、あまりにも臭いから、口にするときでも、できるかぎり口内にある時間を短くして、すぐに喉に通しちゃおうとかって思うでしょ。すぐ喉に通しても、それでも口に残るぐらい強力な臭いがあるというのに。あの強力な粒を何百っ個ってまいたんだから。そりゃ臭いよ。

こんな過剰とも思えるようなペットボトルと正露丸攻撃で野良猫が退散したかっていうと、全然そんなことなくて、家の塀とかをゆうゆうと歩いてたりするんだな。もしかしたら息とめたりしてるのかもしれないけどね。

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1997/12/15 00:00

1997年12月04日

忘れ物王

学校の頃から「忘れ物」には定評があった。
僕のクラスでは、みんなの忘れ物数をカウントして、月間、期間でチャンピオンをきめたりというなかなか楽しいことをしていた。一番忘れ物が少なかった人と、多かった人をそれぞれ選出してミニ賞状を授与する。忘れ物が一番多かった人には罰ゲームみたいなものが待っていて、たしか教室前の廊下を忘れ物数×何十回という感じで、ふき掃除をしなければいけないとか、そういうことだったと思う。

忘れ物の数は自己申告制で、各人の机の右隅には今日の忘れ物数を「正」の字で数えるための紙がセロテープで張り付けてある。忘れ物がみつかったら、みんな素直にこの紙に棒線を一本づつ足していく。そして、終わりの会で、「今日の忘れ物数」をひとりづつが申告していき、それが「忘れ物グラフ」にしるされていく。
忘れ物グラフは教室の後ろ扉を入ってすぐのところに貼ってあり、縦軸が忘れ物数、横軸が生徒の名前となっていて、忘れ物の数だけその生徒の名前列に赤シールをはっていくようになってた。
これはなかなか楽しい試みだった。僕はこういうクダラナイことが大好きだ。子供というのは概してみんな好きなようで、誰も虚偽の申請をするものもいなければ、こんなのくだらねぇと冷めた態度で規律を乱すものもおらず、みんな暇があればグラフを眺めては、ああだこうだと話がはずませていたものである。

忘れ物グラフは一ヶ月ごとに新しくなるのだけど、当然ながら月はじめはみんな横一列で、各人きれいなスタートという感じである。ところが月も半ばにさしかかってくると、一人だけ頭一つ飛び出す奴がいる。競馬でも競輪でもだいたい鼻をとったものは、終盤で息切れして、後続から抜かれていくものなのだけど、このレースの場合はたいがい、そいつはそのまま圧倒的な強さで他をどんどん引き離してしまう。その生徒ってのは何を隠そう僕のことなんだけどね。「わたしの記憶が確かならば・・・・」って、料理の鉄人ではないけれど、5年、6年の2年間、総忘れ物品数は断トツだったはずだし、月間最多忘れ物品数、学期最多忘れ物数などの数々の華々しい記録ももっているはずだ。いまならきっと忘れ物界のイチロー、安打製造機ならぬ、忘れ物製造機なる異名をとっていたに違いない。もう10年おそくうまれていればと、とても口惜しいばかりだ。

何をそんなに忘れたかと聞かれると、こまる。
へんなオチをつけてるわけではないのだけど、ほんとに何を忘れたのかさえ忘れてしまってるからだ。要するにおそろしく忘れっぽい人間なのだろう。

筆箱や下敷きを忘れるのはざらだったに違いない。宿題は家でやったという記憶がまったくないので、たぶん毎日忘れていたのだろう・・・・ というか宿題はわざと忘れていたに違いないのだけど。実際、母に聞いてみると、5年のとき担任から、「しょういちろう君は一度も宿題をやってきたことがない」と言われたらしい。

とにかく、毎日のように何かを忘れていた。

僕の忘れ物史のなかでも、とりわけ印象深いひとつの忘れもの事件がある。
たしか5年生のときの遠足だった。秋だったか春だったかは覚えていないし、どこにいったのかも覚えていない。とりあえず、山? 高原のようなところにいった。

確か、3度休憩だか、見学だかをしたのだ。上りに1回、頂上で昼食をかねて1回、下りで1回だったと思う。その3回の休憩のすべてで、自分のリュックサックを置き忘れた。つまり休憩ごとにリユックサックを持たずに、次の休憩/見学ポイントにむかったのである。これはもう常識では考えられないことだが、ほんとの話だから仕方がない。事実は小説より奇なり、なのだ。

1回目のリユック忘れに気がついたのは、頂上についてからだった。弁当をだそうと思ったときになってはじめて気づいたのである。隊列を組んで歩いていたのだから、後ろを歩いていた友だちが気づいてくれそうなものだが、誰ひとり気づいてくれなかった。昔のことなのでわからないが、今思うに、歩きがてら荷物持ちごっこなどをする連中がいっぱいいたので、その一人に間違えられ、リユックを持っていないことも不思議に思われなかったのではないか?

はじめは家に忘れてきたと思った。これはよく覚えている。
よく学校にランドセルを忘れて行ったことがあるので、それと同じようにリユックごと忘れたと思ったのだ。
先生に言いにいくと、「ゆで麺くん持ってたやないの~」という返事。「さっきの休憩場所に忘れてきたんやわ~」 先生はかなり呆れていた。結局、先生と一緒に、1回目の休憩場所に戻った。案の定、木のふもとにぽつんとひとつだけリユックが放置されていたのだった。

リユックをとって、2回目の休憩場所に戻るともうご飯を食べる時間しか残されていなかった。2回目の休憩場所での休憩時間はかなり長く、お弁当を食べた後は、草原で遊んだりできたのだが、僕には当然ながらそんな時間もなく、先生といっしょに寂しくお弁当を食べた。

走ったり、いそいでお弁当を食べたりしたためかどうだかは知らないが、それでお腹が痛くなったのだ。まあいつものことである。ここぞ!というときには生まれもっての胃腸の弱さが発揮される。

もうすぐ出発、みんな整列!というときになって、お腹がごろごろいいだした。このまま出発するとまた大変なことになるかもしれない、と思った僕は、急いで便所に駆け込んだ。うんこをしていることがバレるのはものすごく恥ずかしかったに違いないが、それでもうんこに行った。
そのときにまたしてもかばんを置いてきてしまったのだ。便器のふもとに。多分、一番最後の便所利用者だったんだろう。人が待っているような便所でうんこができるような図太い神経を持ち合わせていなかったから、みんなが便所からいなくって、最後の最後に急いでうんこをしたに違いない。だから誰からもそのリユックは発見されなかったのだ。

出発してからしばらくして、先生が「ゆで麺くん、かばんわ~?」と声をかけた。
そのときになって、はじめてまたリユックを忘れてきたことに気づいた。「また忘れてきたん~!」先生もびっくりである。こんな馬鹿を見て、いったいどう思ったろう?

ふたたび、先生とリユックをとりに戻った。幸い気づくのが早かったので、すぐに駆け足でもとの隊列に戻ることができた。

そして、第三回目の休憩場所だ。二度あることは三度あるとはよく言ったものだ。
なぜここでも忘れたのか不思議でならない。それほど長く停まっていなかったはずなのに、僕は人知れずリユックをおろして、そのまままた出発したのだ。わざととしか思えない。ほとんど先生に対する嫌がらせである。
2回も同じことを繰り返していながら、まったく反省もせずに、なぜまたリユックを降ろしてしまったんだろう? おそらくしんどいからだ。走ってつかれて、ふぅとリユックを降ろしたのだ。しかも自分ではどこで降ろしたかもわからないまま、降ろしてしまったのだろう。ふたたび出発したときに、今度は、自分でリユックがないことに気づいた。そのとき先生がどんな反応をしたのかはまったく覚えていない。ただそのときの通信簿に「かなり注意力にかける」と書かれたことだけははっきりと覚えている。たぶん普通の人なら1度でさえやらないことを続けさまに3度もやってしまったこの少年を見て、先生も怒りより、哀れみに近い感情を抱いたに違いない。

次の日、「忘れ物グラフ」にすぐさま3つの赤いシールが貼られたのは言うまでもない。

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1997/12/04 12:32

1997年12月01日

素人の手習い

人よりお腹の調子のことを考えている時間が圧倒的に大いと思う。とにかく胃腸の弱さには定評がある。腹が正常なときなんてのは1年のうちごくわずかなものだ。だいたい1週間便秘が続いて、その後、2日ないし3日の下痢に襲われるというサイクルなので、比較的腹の調子がいいのは、下痢がおわった後の2日、3日といったところで、その間に普通に便がでるようになればいいのだけれど、下痢でくるしんだ後だけに少々便所に行きたくても、ついつい後回しにしてしまい、その結果、便秘になってしまう。

胃腸が弱いのは明らかに隔世遺伝だ。胃腸の弱さが遺伝するのかしないのかはわからないが、自分ではそう確信してる。そう確信しないとやっててられないというところがあるのだ。運命だから仕方ないやと諦めてるわけだ。

親父はすこぶる快便男なのだが、祖父はこれまた僕に輪をかけてひどい。
親父はすこぶる快便男なのだが、祖父はこれまた僕に輪をかけてひどい。祖父は今や寝たきり老人で、もっぱら祖母と母が面倒をみているわけだが、とにかく便がでない。もともと便秘症につけ、野菜が大嫌いで、寝たきりになるまえから繊維質をまったくといっていいほどとらなかった。なにせ、15年近くの間、昼にはサッポロ一番の醤油ラーメン(もちろん具なし)しか食べなかったという頑固もんである。自分の嫌いなものはどんなに健康によいと言われようが、それを食べなければ死ぬとまで言われようが絶対食べない。その結果、寝たきりになり、ろくに運動もできなくなった今となっては、地力では便をすることが不可能になってしまった。現在、祖父の便は一週間に一度カンチョウを行うという方法で処理されている。そんなこんなで15年近く生きているのだから人間ってのはなかなか強い生き物である。

汚い話なので気持ち悪い思う人はこれ以上読まないほうがいいとあえて忠告させてもらうが、祖父のカンチョウで母と祖母が大失敗を犯したことがあって、その話をしようと思う。

その日は祖父のカンチョウの日だった。カンチョウはだいたい母と祖母の手によっておこわなわれる。二人とも、もう慣れたものだ。なにせ、10年近くそんなことを繰り返してるのだ。目をつぶってても肛門に一撃ってな感じである。

まあその日もいつもと同じようにカンチョウが行われ、祖父の腸にたまった便がかきだされるはずだった。ただ、その日違ってたのはカンチョウ液がいままでのもとは違っていたことだった。カンチョウ液自体は行きつけの病院でまとめてもらってくるものを使用していて、その日もその病院でもらってきたカンチョウ液だったのだが、その病院にカンチョウ液を卸している業者がかわったかなにかの理由で、メーカーがかわったのだ。

母や祖母もそうなのだが、とにかくうちの家族というのは説明書嫌いである。なにか新しい製品を買っても、ろくに説明書を読むということがない。だからいつまでたってもその製品の機能をフルに活用することができず、自分のわかる範囲でしか機能を使わなかったりする。もちろん僕にもその血は脈々と受け継がれていて、例えば、プラモデルを買っても説明書を見ないで無理矢理つくったりする。順序通りにことを処理していくのが苦手なので、わかる範囲からどんどんつくっていっちゃうのだ。そうするとどうなるか? ガンダムのプラモデルが一時期流行ったが、僕のつくったガンダムはいつも手や足といった、本来なら可動するはずの部分が動かない。手なら手を先につくり、足なら足、胴という具合につくっていった後、胴と手がうまくつけられないことになり、仕方なしに無理矢理接着剤でとめてしまうからだ。

とにかく母も祖母も、カンチョウ液が多少かわったことには気づいても、まえと同じだろうぐらいにしか考えていなかったし、当然ながら説明書を読まなかった。それが祖父にとっては悲劇となった。

そのカンチョウ液がそれ以前のカンチョウ液と大きく異なっていたのは、その外見である。以前のものに比べ、肛門に入れる部分が極端に長いのだ。以前のものがヤクルトのストローならば、今度のはマックシェイクのストローである。

なにが起こったかわかった人は慧眼である。

つまり、母と祖母はその肛門に入れる部分を根元まで肛門のなかに押し込まなければならないものだと思っていたのだ。確かに、以前のものならそれでよかったわけだ。長さもそれほどではないし、根元まで入れて液を注入するという方法で正解だった。しかし、今度のは、説明書によると、その先5cmばかりをお湯であたため、肛門に差し込むというのが正しい使い方だったのだ。当然ながらお湯であたためるなどということもせず、無理矢理その長い注入口を祖父の肛門に差し込んでしまった。

固定観念というのは恐ろしいものである。母や祖母も「ちょっと長いなぁ。これ?」ぐらいには思ったかもしれない。しかし以前までのやりかたがそうであり、しかもそれを何十年と続けてきた彼女たちにとっては、長さ云々よりも、むしろ、しっかり根元まで差し込むということのほうが重要だったのだ。

祖父は悲鳴をあげたが、母と祖母はそんな祖父をおさえつけまでし、見事、根元まで差し込んでしまった。祖父の肛門からは便だけでなく、血までも溢れだしたと聞く。祖父がそれ以降、カンチョウ嫌いになってしまったのは言うまでもない。

いくら便秘になっても、素人にだけはカンチョウはしてもらいたくないものである。

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1997/12/01 16:11

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