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2004年02月14日

岩井俊二「Love Letter」

Love Letter

Love Letter

フジテレビ系で岩井俊二の「Love Letter」を放送していたので、久しぶりに見た。
「Love Letter」は劇場でも3回観て、さらにビデオでも10回ぐらいは観ている。
絵コンテやサントラも持っていたりする。(岩井俊二のTVドラマや、映画に音楽を提供しているREMEDIOSの音楽はほんといい。)
一時期、熱烈な岩井俊二ファンだったのだ。

岩井俊二の映像をはじめて見たのは、関西だけで深夜放送してた「ドラマDOS」で放送された「見知らぬ我が子」という短編ドラマだった。これはかなり衝撃的だった。「ドラマDOS」は、新人映像作家の短編ドラマを放送する番組で好きだったのだけど、他の作品とは明らかにレベルが違う、その作品にあー、すごい新人だなぁと感じたことを覚えている。

その次に観たのは「夏至物語」だ。「夏至物語」を観て、「見知らぬわが子」の監督と同じということはスグに気づいた。やはり映像のセンスはずば抜けていた。
この頃から、ボクは岩井俊二という名前を覚え、徐々にその映像に興味を抱きはじめる。調べてみると、プロモーションビデオやCMもいろいろと手掛けているといことでそれらを手に入れた。
この頃、東京では「La Cuisine」という枠で「オムレツ」や「ゴーストスープ」などが放送されていたけれど、ボクは京都にいたためチェックできていなかった。

ボクの中で岩井俊二が決定的になったのは、「ifもしも、打上げ花火 上から見るか? 横から見るか?」を観た時。これにはほんとやられたと思った。ボクは8mm映画を撮っていたのだけれど、いつか相米監督の「台風クラブ」のような映画を小学生を主人公にして撮るってのが夢だった。「打上げ花火」はまさに小学生版「台風クラブ」。ボクがやりたいなぁと思っていた世界そのものだったのだ。
TVドラマとは思えない映像の美しさ、細かいカット割り、実に自然な子供達の表情、会話。人気のない病院の受付で「すいません」と言うときに声が裏返ってしまうユウスケ。夜の小学校、プールに忍び込んだ「ナズナ」が言う「墨守みたい」というぶっきらぼうのセリフ。「もうすぐ二学期だね。楽しみだね」と、もう会えないことをわかりつつ笑顔を見せるナズナ..
あげていけばキリがないぐらい好きなシーンがある。
「ifもしも」という番組が定めたルールをほとんど無視するかのようなストーリー展開も魅力的だ。

「打ち上げ花火」で完全に岩井俊二の虜にされてしまった僕は、本格的に岩井俊二の手掛けた映像の収集を始めた。「La Cuisine」で放送されたものもネットなどで知り合ったファンを通じてダビングしてもらったり、「ドラマDOS」で放送されて見逃していた「殺しに来た男」も手に入れた。手掛けたプロモーションビデオや、TVCMもほぼすべて持っている。

久しぶりに見た「Love Letter」もやっぱりよかった。泣ける。

愛するということは、その人の固有性を愛することだ。固有性はいくら言葉を重ねても決して「つかめない」。「趣味が合うから」「顔がタイプだから」「優しいから」...  言葉でどれだけ説明したところで、その人の固有性・此性を捉えることはできない。愛するということは、その人以外の何ものでもない、取替えのきかない此性を愛することだ。
柏原崇演ずる藤井樹が、同姓同名の藤井樹の名前を図書カードに書いていく。これこそ愛そのものじゃないだろうか。「名前=固有名詞」は、「此性」そのものだからだ。しかし、「藤井樹」は二人いる。自分とまったく同じ名前を持った人を愛してしまった幸運と不幸。

藤井樹(女)と渡辺博子(共に中山美穂)
と藤井樹(男)と藤井樹(女)(同姓同名)

という二つのシンメトリー。渡辺博子⇔藤井樹(男)の恋は、藤井樹(男)の「死」によって挫折し、藤井樹(男)→藤井樹(女)への恋も、「同姓同名」という「不幸」によって挫折する。ある意味、藤井樹(男)は、二度も「同じ女性」への恋に挫折しているのだ。

映画では、中山美穂演じる藤井樹(女)が過去を振り返えることで、自分のなかでは不幸以外のなにものでもなかった同姓同名の藤井樹(男)との思い出を再構築していく。そう。時を経てようやく藤井樹(男)の恋は、藤井樹(女)に届いたのだ。しかし、すでにその時、藤井樹(男)はこの世にいない。なんという悲しさだろう。
(こういう見方をすると、渡辺博子は、藤井樹(女)に似ていたからだけで愛されていた不幸な女性のようになってしまうなぁ....)

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2004/02/14 23:46

2003年12月02日

ノー・マンズ・ランド

ノー・マンズ・ランド

ノー・マンズ・ランド

あんまり期待してたなかったけどオンラインDVDレンタルで、リストに入れてたみたいで届いた。見てびっくり。セルビアとボスニア・ヘルツェコビナの内戦の映画というと、あぁまたかと思いがちだけれども、ここまでシンプルなストーリーと限定された状況だけでよくこれだけ面白い映画が撮れたなぁ。まったく。

無用なものをそぎ落としただけに、余計に民族問題の根深さとか、複雑な状況が浮かび上がってくる。観たあとにえらく考えさせられる映画だ。(といっても、ボクはこのあたりの民族問題について知識がないので、考えることもないのだけれど)

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2003/12/02 00:20

2003年11月02日

死ぬまでにしたい10のこと

死ぬまでにしたい10のこと

余命2ヶ月と宣告されたら....
似たような状況設定の小説やテレビドラマ、映画は今までにもいくつもあった
だろう。
極めてドラマチックな設定にもかかわらず、それはいつでも自分にも起きえる状況なだけに、観る人をドラマに引き込ませる。

ところが、ドラマを構成しやすいテーマだけに、それが仇となり、まるで嘘っぽくなってしまうという危険性も持ち合わせているわけだ。
この手のストーリーは、劇的にしようと思えばいくらでも劇的になってしまうだけに、ストーリーの作り手が自制を効かせなければ、どうしようもない話へと転がり落ちてしまう。例えば、余命宣告された主人公が自暴自棄になったり、そういった自分への葛藤を抱えながら、周りの人間の助けなども借りて、生きるということの実感を最後まで味わい、そして周りの人間も「生」にたいして、あらためて考えさせられる、というような話だ。どこかで読んだり、観たりしてないだろうか?

この映画の場合は、映画の時間では、医師と余命宣告を受けた本人アン以外は、最後までそのことを知らないでいる。そのため、周りの人間と主人公とがぶつかったり、葛藤したりということがない。周りの人間から見れば、アンはそれまでと変わらず普通なのだ。ただ、観ている側では、アンの境遇を知っているため、子供たちを抱きしめ「愛している」囁くアンの姿や、旦那とは違う男性と抱擁する姿に哀しさがこみあげてくる。
演出として哀しさを意図的に醸し出したり、劇的な状況をつくらないだけに、何気ない日常が、いとおしく美しく映るのだ。

役者達もすばらしかった。
アン役を演じたサラ・ボーリーはほんと良い役者だと思った。また、アンの隣人として、アンが自分が死んでしまった後に、子供達のお母さんになって欲しいと願う同名の「アン」を演じたレオノール・ワトリングも良かった。

関係ないが、
「八月のクリスマス」でも、主人公が自分が死ぬということを理解しつつ、日々を大事に過ごしていく主人公が描かれていた。「八月のクリスマス」でも、ドラマをあえて盛り上げず、たんたんと描くことで、すべてのシーンが愛しく観えた。こちらも傑作。

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2003/11/02 00:07

2003年10月26日

キルビル/ボーリング・フォー・コロンバイン

タランティーノ久々の新作「キルビル」
すでに乗り遅れた感があるものの、とりあえず観ておかねばと、「ボーリング・フォー・コロンバイン」を観る。

ボウリング・フォー・コロンバイン

ボウリング・フォー・コロンバイン

いやはや「キルビル」。
タランティーノは本来、B級映画監督だと思う。
そして、B級のかっこよさというか、そういうものを追求するところにタランティーノらしさがあるのではないかと思うのだけれど、この「キルビル」に関しては、B級以下だ。
なにもかもが中途半端だ。もちろんA級を期待して観に行くと、途中で席を立ちたくなるかもしれない。キルビルを観てから座頭一を観れば、座頭一の殺陣が凄いと感じるだろう。
ユマ・サーマンの立ち回りは素人目に見ても、馬鹿にしている。その素人くささというか、馬鹿っぽさを「売り」にしているのかというとそういうわけでもなく、中途半端に「本物」を目指そうとしてしまうから、こんな消化不良の映画になってしまうのではないか。「少林サッカー」を目指すのか、「座頭一」を目指すのか、はっきりさせるべきだろう。

栗山千明はよかったけどね。

「ボーリング・フォー・コロンバイン」については、観る前にあまりにも情報を多く得すぎてしまったので、特に驚きはなかった。しかし、アメリカの闇というか病を、アメリカ人自身が告発し、それを映画というメディアをつかって、世界に語るというのは凄いことだと思う。
チョムスキーも語ってるように、やはりアメリカでは、卑屈なぐらいメディアはコントロールされきっている。

しかし、チャールストン・ヘストンの馬鹿さに比べ、マリリン・マンソンの頭のよさというか、考えの深さというか、そういうものが浮き彫りになっていて面白かったな。

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2003/10/26 00:25

2001年10月21日

オー・ブラザー

オー・ブラザー!

オー・ブラザー!

昨日は、コーエン兄弟の新作「オー・ブラザー」を観てきた。
コーエン兄弟の映画はなんといっても登場人物たちの「顔」を見なくてはならない。どう考えても変な顔ばかり。ドリフじゃないんだから。ストーリーはいつもと同じくおそろしくみみっちくそしてどうでもいい。なのに凝りに凝りまくったディティール。で、どこかみんなずれてる登場人物。学生映画的なノリを残しつつ、学生映画じゃとてもじゃないけどできないような緻密な計算に基づいた構成。たんに凝ったアングルや編集だけで人を惑わすのではなく、映画全体の雰囲気やトーンを守るための徹底したこだわり。これぞ職人という感じだ。
コーエン兄弟の映画を見ると、なんとこう幸せになることか。

その勢いで、「ハンニバル」と「バトルロワイヤル」のビデオを借りた。どうしようもない。「ハンニバル」は「羊たちの沈黙」のよいところをすべてそぎ落としてしまった駄作だと思う。これが面白いというやつの気がしれん。
「バトルロワイヤル」は期待はしてなかったが、予想とおりというか。おそらく数ヶ月後には、観たことさえも忘れてしまうような映画かもしれない。映画じゃなくてもいいじゃないかとも思った。

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2001/10/21 21:53