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2005年04月01日

文章は受け身形を使わない

4月の始まり。うちの会社にとっては新年度の始まり。
何を始めるにも4月というのはなんとなく気持ちいい。気分が高ぶる。毎年この時期は何かを始めたくなる。ということでブログの更新を再開する。

文章は受け身形を使わない(日経産業新聞)

「~と考えられる」「~と思われる」というような受け身系には、「他の人もこう言っている」という含意がある。しかし問題は「他の人」が誰だかわからないあいまいさにある。

なるほど。受け身系には「責任を逃れたい」という心理があるということか。
文章のチェックポイントの一つかもね。

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2005/04/01 09:44

2005年02月11日

間違いブレスト

最近ある会社の方から「ブレストしたいんで来てください」と呼ばれることが多い。呼ばれることはありがたいし嬉しいのだけれど、そこで行われる「ブレスト」がどう考えても「ブレスト」ではないので、そこがちょっと哀しい。

ブレストとは言わずもがな「ブレーン・ストーミング」の略。ぐぐってもらえればいくらでも出てくるが、Ability Gardenこちらのページを読むと、広告代理店BBDO社の副社長だったアレックス・F・オズボーンが考え出した技法だそうな。特定の問題に対する解決策やアイディアをグループディスカッションによって生み出す方法であり、ページにもあるようにいちおう実施の手順が定められている。

この実施手順が「すべて」かといわれると他にも応用はあるだろうし、やりかたは各自で工夫すれば良いと思うのだが、この一線を越えたらブレストでもなんでもなくなるんじゃないかというところがある。それは「批判厳禁」というルールだ。
ブレストはそもそも質よりまず量を重視する。そのため参加者がどんどん意見を出すことで、たとえその意見が多少実現性が薄かったり、違和感があるようなものでも、逆にそういう意見を足がかりとして、別のアイディアにつなげたり、便乗してより膨らませたりすることが大事とされる。

しかし、ここ最近呼ばれるそのブレストと称される会議というのは、まったくこのルールが守られない。というか、普通の会議を「ブレスト」と言ってるだけなのだ。

その会議を司るリーダーの方は、ほとんどの意見を「そりゃ駄目だな」で切り捨ててしまう。そしてたいていは会議前にすでにその人の中では結論が出ていて、その意見を出したらそこで終わりなのだ。その意見に便乗するようなアイディアを出すと、「そりゃやりすぎだろ」、別方面から攻めても「いや、そりゃないな、ありえない」。結局、会議に参加する誰一人の意見もアイディアとして扱われることなく、そのままリーダーが出した意見で終息を向かえる。で、最後に、「じゃぁこのアイディアをベースにもうちょい捻りいれて企画書つくっといてよ」となる。が、実はこの「捻りをいれて」というのも曲者で、捻りを入れると、「なにこれ?」といわれることが多い。結局、修正修正の嵐で、気づくと、最初にこの人が言ったことそのまんまの提案書ができあがるだけだったりする。そのクセ、後で「結局さぁ、企画書、俺が指示したまんまじゃん」みたいなこといわれたりする。ちょっと呆れる。

それでこのリーダーの出す案が優れたものなら文句も言わないのだが、あまりにもひどい。企画でもなんでもないのだ。「"先端性"を表現するために、Flashなどを用いた動きのあるビジュアル」なんて、何年前の提案だよw そんな提案してるから駄目なんだろうと思うだけど。こちらが出す案、意見はすべて否定のでどうしようもない。

今は我慢の時で、もう少ししたら真剣に面と向かって、あなたは間違っています、と言うつもりだが、まだ付き合いが浅いので今は様子見だ。

ちなみに、このオズボーンだけれども、「ブレーン・ストーミング」以外では、オズボーンのチェックリストが有名。うちの会社のToolCardでもオズボーンのチェックリストにプラスαしたものがある。オズボーンのチェックリストとは、何かしらアイディアを考える際の法則で、「拡大してみたら」「縮小してみたら」「入れ替えてみたら」「結合してみたら」「真似てみたら」「代用してみたら」というような9つの視点のこと。考えをこの9つの視点からもう一度考え直すと、意外な発見ができたりして、新しいアイディアの発見に結びついたりする。
この状況を打破するためのアイディアをこのチェックリストをつかって考えてみよう。そっか、こちらがブレスト開催役を演じてこの人を呼べばいいんだ...(入れ替えてみたら) ボクのほうがファシリテーター役回りを演じればそれで気づきを与えられるかもしれん。なるほど。おそるべきオズボーンのチェックリスト。

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2005/02/11 21:39

2004年12月06日

「性格」というのものはあるのか?

ボクは血液型などの性格診断はあまり信じていない。
性格診断みたいなものをあまり信じないのは、それを信じても自身に有利にならないということもあるが、一番大きいのは岸田秀に影響を受けたからだろう。

岸田秀は中学生から高校にかけてもっとも熱心に読んだ心理学者だ。中学の時に誰が買ったのかはわからないが家にあった「ものぐさ精神分析」を手にした。筒井ファンだったボクは、筒井の影響でユングやフロイトも齧りかけていた頃だったのだけれど、「ものぐさ」にはハンマーで頭を殴られるぐらいの衝撃を受けた。

彼に出会わなければ、フロイトもレインもニーチェも読んでなかっただろう。(と、暗にこういうものが好きだと主張しているのだけど)
哲学や心理学の扉を開いてくれたのは、彼の著書に出会ったことが大きい。彼の書くものはかなり極端なので、全面的にすべて受け入れているわけでもないけれども、ロジックの明快さと、わかりやすさ、何よりもその視点、立ち位置が面白い。

さて、岸田さんの代表作「続・ものぐさ精神分析」のなかに「性格について」というとても面白い分析がある。「性格」についての彼の考え方も、彼がずっと唱え続けている「唯幻想論」が土台になっている。結論から言えば、岸田さんは「性格」なんていうものが、ある人に固有の特性や特質として何かしらの実体として備わっているようなものではないと語る。

岸田さんは「性格とは当人の内側にあるものではない」と言い、こんな譬え話を持ってくる。

AとBとの二人の人間がいる場合、Aが気がひけてとてもできないようなことをBは平気でやれるということはある。そういう場合を見て、Aは、自分は気が弱いがBは気が強いと判断するのであろうが、逆の場合、すなわち、Bが気がひけてとてもできないようなことをAは平気でやれるという場合もあるのである。この場合、Aは自分が平気でやれることなので、別に「気の強い」ふるまいとは思わず、当たり前の普通のことをしているという気持ちしかなく、その同じことを、Bもやりたかったのだが、気がひけてがまんしたという事実は、Bの心のなかのことだから、Aには見えず、したがって、この後者のような場合がいくらあっても、Aの「自分は気が弱いが、Bは気が強い」という判断は変わらない。逆に、Bには後者のような場合は見えるが、前者のような場合は見えないから、Bもまた「自分は気が弱いが、Aは気が強い」と思っていることであろう。AとBとがたがいに相手を自分と同じように「気が弱い」と思っている場合があるとすれば、それは、Aが気がひけてできないことと、Bが気がひけてできないことが共通している場合にかぎられる。

(中略)

AとBとの人間関係が、AとBとの関係のなかでのAの性格とBの性格とを規定する。したがって、BにとってのAの性格と、CにとってのAの性格とは異なっている。もし、両者が似通っているとすれば、それは、AとBとの人間関係と、AとCとの人間関係が、たとえばA、B、Cの三者が同じ集団に属しているなどの理由から、似通っているからにほかならない。誰にとっても同じであるような、そして、もし異なった見方をする者がいればその者を理解が浅いとか、誤解をしているとか決めつけることができるような、普遍妥当なAの性格なるものは存在しない。したがって、「客観的に」性格を検査しようとするあらゆる性格テストは無意味である。

血液型による性格診断などで「気が弱い」と書かれていたとする。
これは実は誰にでも当てはまってしまう。なぜなら「気が弱い」という性質を「他の人に気を遣って自分の言いたいことが充分言えない、やりたことが充分やれない」というものだと考えるとき、逆に「他の人びとに全然気を遣わずに、自分の言いたいことはすべて言い、やりたいことはすべてやるという人がいるわけない」からだ(そんな人がいたら社会的に抹殺されているだろうと、岸田は言う)。つまり「あなたは気が弱い」と言われれば、たいていの人は心の裡では「そうだ」と思ってしまう。

「あなたは気が弱い」といわれたときに、「絶対に違う」と言い切れる人は、おそらく周りから「気が強い」ということを言われてきて、そういった外的評価をセルフイメージとして消化している人だろう。

ここでとりあげた話はさすがに少し極端すぎるところはあると思う。

例えば、ボクは猫を飼っているが、その猫の振る舞いや態度は明らかに今までボクが接してきた他の猫とは違っていて、それはその猫の「性格」というやつではないかと思う。岸田さんに言わせれば、それは性格ではなく本能に直結した「特性」なんてことを言うかもしれないし、飼い主側が猫にそういう性格を投影しているのだと言うかもしれない。でも、やはり性格のすべてが相手との関係で決定されるというのは、少し無理があるとは思う。人間の赤ちゃんでも自我が芽生え始める頃には明らかに一人一人違いがある。それは性格というものに起因している。すべて外部環境や他者によって規定されているとはどうしても思えない。

とは思いつつも、ボクは概ね岸田さんの考え方を受け入れる。

性格とか気質みたいなものが人間の特性としてまったくないとは思えないけど、しかし、それだけがすべてではない。むしろ岸田さんが言うように、実は大部分が他人との関係や、その関係を通じて共有された認識やら、そういったものによっていかにも類型的な性格があるように見えてしまうのではないか。

性格を何かしらのタイプでわけたり、分類したりすることが悪いことではない。岸田さんのように考えなければならないというものではなく、岸田さんは単に視座を提供しているにすぎない。しかしその視座を得られるとき、人や事物にたいしての接し方、考え方のは、ただ類型的な性格に基づいて人を判断するよりもずっと大きなものを得られる可能性がある。そこが重要だろう。「彼は気が弱い」とか「自分は気が強い」「怒りっぽい」と考える前に、その視点をずらしてみる。自身ではまったく気づいていないが、他者にとって自分の行動がとてつもなく大胆な行動に映っているものもあるかもしれない。逆に、ボクが気づいてないだけで「気が強い」と決め付けていたある人は、内心では自身のことを「気弱」だと考えているかもしれない。こんな風に考える視点を得られるだけで充分だと思う。

岸田さんのテクストは、安易に「客観的な性格」みたいなものを基準としてしまうような思考のあり方そのものを疑ってみよ、という警笛みたいなものとして受け入れるのが良いのではないか。たとえ岸田さんのテクストが本当だとしても、ボクらは人それぞれの多様性を多様性のままに受け入れることには耐えられない。「性格」というものがあたかも存在するものかのように扱い、類型化したくなるのは、そうしないと不具合があるからだろう。あの人の性格は温厚だ、とかあいつは怒りっぽいとか、そういう性格判断を行っておくこと、コミュニティの共同幻想としておくことが、「人づきあい」の潤滑油みたいに作用しているのだろう。

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2004/12/06 00:08

2004年02月06日

「錯覚」利用 本物らしく

テレビなどに流れるテロップの字をぼかすと、はっきりした字よりも読みやすいことを実験で確認した。画面に二センチ角の文字を流し、十人に見てもらった。普通の文字だと一秒間に十五ー二十文字を読み取るのが限界だったが、文字をすりガラスを通して見た時のようにぼかすと、十八ー二十五文字に向上した。(日本経済新聞)
NTTが開発したテロップを読みやすくする新手法。

慶応大学では、コンピューター画面のカーソルの表示に「手触り」や「奥行き」を感じさせるシステムを開発したとのこと。
画面内に遠近法を持ち込むみたいなもんかな。
単純に解像度をあげて「美しく」見せたり、「リアル」に見せたりするのではなく、「知覚」の仕組みを利用しようという試み。

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2004/02/06 10:49

2004年01月30日

列車運転士らにカメラ付携帯電話

JR東日本水戸支店で、列車の運転士らにカメラ付き携帯電話を持たせるらしい(日経産業新聞)
列車走行中にトラブルが起きたとき、現場の様子をカメラで撮影して、会社に送る。状況が把握しやすくなる。

なるほどなぁ。しかしトラブルをケータイのカメラで撮ってたりする運転士とかいたら、知らない人見たら不謹慎だって怒るんじゃないのかなぁ...

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2004/01/30 09:39