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2007年03月11日

ピクショナリーを手に入れたのだ。

念願だったピクショナリーをようやく手にした。
オークションなどで時折出品されるものの、いつも競り落とされていた。
商品も無事届いたのが、中身はほぼ新品。

ピクショナリー

ピクショナリーというゲームはご存知だろうか。
二人一組になって、与えらるお題を一人が絵にする。もう1人がそれを当てる。実にシンプルなゲームだ。
面白いのはそのお題だ。なかなか絵に表現しにくいものがでる。例えば「たぐる」だとか、「クリントン大統領」だとか「川の流れのように」だとか。これをいかにして絵だけで伝えるか。

このゲームをやってると本当に象形文字ができてきた過程を考えさせられる時がある。
絵のうまい下手ではなく、いかにその特徴的ところを伝えられるか、あるいは連想させるものを描けるか。
しゃべったり、文字を書かなければ何を描いても良いので、例えば、言葉を分解して、その一文字一文字を絵にして伝えていく方法もとれる。例えば、「か」なら「蚊」の絵、「ち」なら「血」の絵といった具合だ。

このゲームは友達が持っていて何度かやったのだが、これほど盛り上がるゲームはない。
大の大人が必死になって大笑いできる希有なゲームなのだ。麻雀以外で、ひたすらゲームだけで徹夜したボードゲームはピクショナリーぐらいなものだ。

このゲームの日本版は、セガが発売していたのだが、ゲームの権利を持つている大元の会社がつぶれたとかなんとかで、日本版も絶版。今や手に入れるのはかなり困難な状況になってしまった。

密かに人気があるゲームだっただけに、オークションでもかなり高額での取引になる。
今回ボクがいくらで手にいれたのかはあえて書かないが、しかしボードゲームとしてはとんでもない金額であったことだけは伝えておこう。多分、金額を聞いたらバカじゃないの、と言う人数知れずだろう。

このゲームの思い出といえば、ボクと当時の同居人Kのコンビだろう。
このコンビの時は、他チームをよせつけぬような神業的な意思疎通がなされる。

あまりにも強すぎて、不正をしてるんではないかという疑いをもたれたり、ハンデの必要性が吟味されたほどだ。ボクも同居人も他の人とのペアの時はそれほどでもないのだが、二人で組むと、なぜか異常によくわかる。数本の線だけで答えがわかっていまったりするのだ。

先ほどの「川の流れのように」などは、10秒もかからずに答えを導いたし(この時はボクが絵を描き、同居人が答えてた) 「たぐる」にいたっては、田んぼの絵と某宗教法人の「グル」の絵で答えを導いた。「遠藤周作」は、海と毒が入ってそうな瓶の絵、そして目がバツになったハゲ男の顔の絵というこの3つから「海と毒薬」を連想し、そこから「遠藤周作」を導きだした。
他、チームには、その絵でなぜその答えが思いつくのかがさっぱりわからない。でもボクらにはわかるのだ。不思議だ。

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2007/03/11 15:25

2006年01月20日

タバコ買って来いって言っただろ!

朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)

「タバコ買って来いって言っただろ!」 魚買ってきた仲間を殺害
 京畿道坡州警察署は18日、「タバコを買って来るよう命じたところ、魚を買って来た」との理由から酒を飲んでいた仲間を殴り死亡させた容疑(暴行致死)でキム某(43/日雇い労働者)容疑者に対し、逮捕状を申請し

殺された方には申し訳ないけど、この記事には思わず吹き出してしまった。想像するだけで笑える。
まるでコントだ。朝鮮語では「タバコ」と「魚」の発音が似ているいるのだろうか。しかし、「魚」って... 買ってきたほうも「なんで魚なんだろう」と思わなかったのだろうか。
記事もよく読むとかなり突っ込みどころ満載だ。「警察は「キム容疑者が普段からパクさんを必要以上によく殴っていた」という周囲の証言から、偶発的犯行と見ている。」って、「必要以上によく殴っていた」って...必要範囲って何なのだ。記事タイトルからは中学や高校生の犯罪のように思えるが、実は45歳の日雇い労働者が、62歳の日雇い労働者を殺害したという事件。うーむ。

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2006/01/20 01:01

2006年01月04日

20Q

【即出荷可能】BANDAI[人工知能] 20Q(トゥエンティキュー)

飯を食いに行った帰りにジャパンに寄ってつい購入してしまった。
馬鹿にしてたが、これがなかなかすごい。
「いちご」や「バス」が当たったのは、少々驚きもしたが、まぁ当たるだろうという感じだが、「信号」が当たったときには、たまげた。さらに、子供なら誰もが手を出したくなる「う○こ」でやってみたら、ほぼ正解の答えが導き出されて、大笑い。
米国のものを日本語にローカライズすると正解率は4割程度だったそうで、正解率を上げるための回答データ集めにブログのクチコミが大きな役割をはたしたとか。(『「ソレハ イキモノ?」――ブログが鍛えた人工知能「20Q」』) そういえば、ボクもこのウェブのテスト版をやった覚えがあるぞ。
1人では面白くないが、数人でやると、ズバリの答えが表示されるときは、思わず笑ってしまう。暇つぶしにはもってこいの玩具だ。

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2006/01/04 17:01

2005年07月27日

階ごとの郵便番号

ついさっき知ったのだけど、高層ビルなどは、階ごとに郵便番号が割り当てられてることが多いのですな。全然知らなかった。こんなのは常識中の常識なのかもしれないが。恥ずかしながらボクは知りませんでした。高層ビルにオフィスを構えてりゃ知ってたのだろうが....

六本木ヒルズ

106-61XX で、「XX」に各階が割り当てられているわけね。100階以上ある建物はどうなるのだろうか。日本にはないのだろうが、台湾の台北101は、その名の通り101階建てだ。

階ごとに郵便番号を割り当てるかどうかというのは、どういう判断でなされてるのだろう。結構高いビルでも郵便番号が割り当てられていないビルもあるし。

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2005/07/27 14:33

2005年07月22日

想像力の磨耗

保坂和志『言葉の外へ』P.150 「想像力の磨耗」というコラムの一節。

考えるということは「答えること」ではない。考えるということは「疑問を出すこと」だ。考えることが「答えを出すこと」だと思っている大人は、すでにそれだけで学校教育の悪い面におかされている。答えが一つしかないと思っている人は、もっとひどくおかされている。

 疑問を出すことは答えることよりも難しい。たとえば、リンゴが落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したとされているけれど、発見つまり答えより先に、「何故落ちるのか?」という疑問があった。ニュートンは、「何故落ちるのか?」という疑問を出すことができた人だったのだ。

同じようなことをドラッカーも言ってた気がする。「正しい答えではなく、正しい問いが必要」みたいなことだ。「間違った問い」から得られる「正しい答え」ほどやっかいなものはないとかなんとか。

「最近の人」(なんて言うと年寄り臭いし、紋切り型だが)の傾向は、とにかく答えを知りたがる、ってことだろう。考える前に答えを求める。「答え」が既に存在しているという前提からスタートすることが多くて、「答え」を知らないから、問題が解けないと勘違いする。当たり前だけど「答え」を知らないから問題が解けないのではない。
「答え」を求めるってのが普通になると、なんでもかんでも「答え」を覚えようとする。「答え」ばっかり覚えたって意味がない。そんな「答え」など、質問が変われば変わってしまう。文脈が変われば変わってしまうのだ。

どんな業種でもそうだけど、WEBディレクターや、プロデューサーになりたいなら、安易に「答え」を求めるって姿勢は捨てるべきだ。むしろ、自ら「質問」する人を目指そう。

ある意味、早く「答え」に帰着させたいというのは、思考の放棄なのだ。

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2005/07/22 20:55

2005年04月01日

文章は受け身形を使わない

4月の始まり。うちの会社にとっては新年度の始まり。
何を始めるにも4月というのはなんとなく気持ちいい。気分が高ぶる。毎年この時期は何かを始めたくなる。ということでブログの更新を再開する。

文章は受け身形を使わない(日経産業新聞)

「~と考えられる」「~と思われる」というような受け身系には、「他の人もこう言っている」という含意がある。しかし問題は「他の人」が誰だかわからないあいまいさにある。

なるほど。受け身系には「責任を逃れたい」という心理があるということか。
文章のチェックポイントの一つかもね。

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2005/04/01 09:44

2005年02月11日

間違いブレスト

最近ある会社の方から「ブレストしたいんで来てください」と呼ばれることが多い。呼ばれることはありがたいし嬉しいのだけれど、そこで行われる「ブレスト」がどう考えても「ブレスト」ではないので、そこがちょっと哀しい。

ブレストとは言わずもがな「ブレーン・ストーミング」の略。ぐぐってもらえればいくらでも出てくるが、Ability Gardenこちらのページを読むと、広告代理店BBDO社の副社長だったアレックス・F・オズボーンが考え出した技法だそうな。特定の問題に対する解決策やアイディアをグループディスカッションによって生み出す方法であり、ページにもあるようにいちおう実施の手順が定められている。

この実施手順が「すべて」かといわれると他にも応用はあるだろうし、やりかたは各自で工夫すれば良いと思うのだが、この一線を越えたらブレストでもなんでもなくなるんじゃないかというところがある。それは「批判厳禁」というルールだ。
ブレストはそもそも質よりまず量を重視する。そのため参加者がどんどん意見を出すことで、たとえその意見が多少実現性が薄かったり、違和感があるようなものでも、逆にそういう意見を足がかりとして、別のアイディアにつなげたり、便乗してより膨らませたりすることが大事とされる。

しかし、ここ最近呼ばれるそのブレストと称される会議というのは、まったくこのルールが守られない。というか、普通の会議を「ブレスト」と言ってるだけなのだ。

その会議を司るリーダーの方は、ほとんどの意見を「そりゃ駄目だな」で切り捨ててしまう。そしてたいていは会議前にすでにその人の中では結論が出ていて、その意見を出したらそこで終わりなのだ。その意見に便乗するようなアイディアを出すと、「そりゃやりすぎだろ」、別方面から攻めても「いや、そりゃないな、ありえない」。結局、会議に参加する誰一人の意見もアイディアとして扱われることなく、そのままリーダーが出した意見で終息を向かえる。で、最後に、「じゃぁこのアイディアをベースにもうちょい捻りいれて企画書つくっといてよ」となる。が、実はこの「捻りをいれて」というのも曲者で、捻りを入れると、「なにこれ?」といわれることが多い。結局、修正修正の嵐で、気づくと、最初にこの人が言ったことそのまんまの提案書ができあがるだけだったりする。そのクセ、後で「結局さぁ、企画書、俺が指示したまんまじゃん」みたいなこといわれたりする。ちょっと呆れる。

それでこのリーダーの出す案が優れたものなら文句も言わないのだが、あまりにもひどい。企画でもなんでもないのだ。「"先端性"を表現するために、Flashなどを用いた動きのあるビジュアル」なんて、何年前の提案だよw そんな提案してるから駄目なんだろうと思うだけど。こちらが出す案、意見はすべて否定のでどうしようもない。

今は我慢の時で、もう少ししたら真剣に面と向かって、あなたは間違っています、と言うつもりだが、まだ付き合いが浅いので今は様子見だ。

ちなみに、このオズボーンだけれども、「ブレーン・ストーミング」以外では、オズボーンのチェックリストが有名。うちの会社のToolCardでもオズボーンのチェックリストにプラスαしたものがある。オズボーンのチェックリストとは、何かしらアイディアを考える際の法則で、「拡大してみたら」「縮小してみたら」「入れ替えてみたら」「結合してみたら」「真似てみたら」「代用してみたら」というような9つの視点のこと。考えをこの9つの視点からもう一度考え直すと、意外な発見ができたりして、新しいアイディアの発見に結びついたりする。
この状況を打破するためのアイディアをこのチェックリストをつかって考えてみよう。そっか、こちらがブレスト開催役を演じてこの人を呼べばいいんだ...(入れ替えてみたら) ボクのほうがファシリテーター役回りを演じればそれで気づきを与えられるかもしれん。なるほど。おそるべきオズボーンのチェックリスト。

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2005/02/11 21:39

2004年12月06日

「性格」というのものはあるのか?

ボクは血液型などの性格診断はあまり信じていない。
性格診断みたいなものをあまり信じないのは、それを信じても自身に有利にならないということもあるが、一番大きいのは岸田秀に影響を受けたからだろう。

岸田秀は中学生から高校にかけてもっとも熱心に読んだ心理学者だ。中学の時に誰が買ったのかはわからないが家にあった「ものぐさ精神分析」を手にした。筒井ファンだったボクは、筒井の影響でユングやフロイトも齧りかけていた頃だったのだけれど、「ものぐさ」にはハンマーで頭を殴られるぐらいの衝撃を受けた。

彼に出会わなければ、フロイトもレインもニーチェも読んでなかっただろう。(と、暗にこういうものが好きだと主張しているのだけど)
哲学や心理学の扉を開いてくれたのは、彼の著書に出会ったことが大きい。彼の書くものはかなり極端なので、全面的にすべて受け入れているわけでもないけれども、ロジックの明快さと、わかりやすさ、何よりもその視点、立ち位置が面白い。

さて、岸田さんの代表作「続・ものぐさ精神分析」のなかに「性格について」というとても面白い分析がある。「性格」についての彼の考え方も、彼がずっと唱え続けている「唯幻想論」が土台になっている。結論から言えば、岸田さんは「性格」なんていうものが、ある人に固有の特性や特質として何かしらの実体として備わっているようなものではないと語る。

岸田さんは「性格とは当人の内側にあるものではない」と言い、こんな譬え話を持ってくる。

AとBとの二人の人間がいる場合、Aが気がひけてとてもできないようなことをBは平気でやれるということはある。そういう場合を見て、Aは、自分は気が弱いがBは気が強いと判断するのであろうが、逆の場合、すなわち、Bが気がひけてとてもできないようなことをAは平気でやれるという場合もあるのである。この場合、Aは自分が平気でやれることなので、別に「気の強い」ふるまいとは思わず、当たり前の普通のことをしているという気持ちしかなく、その同じことを、Bもやりたかったのだが、気がひけてがまんしたという事実は、Bの心のなかのことだから、Aには見えず、したがって、この後者のような場合がいくらあっても、Aの「自分は気が弱いが、Bは気が強い」という判断は変わらない。逆に、Bには後者のような場合は見えるが、前者のような場合は見えないから、Bもまた「自分は気が弱いが、Aは気が強い」と思っていることであろう。AとBとがたがいに相手を自分と同じように「気が弱い」と思っている場合があるとすれば、それは、Aが気がひけてできないことと、Bが気がひけてできないことが共通している場合にかぎられる。

(中略)

AとBとの人間関係が、AとBとの関係のなかでのAの性格とBの性格とを規定する。したがって、BにとってのAの性格と、CにとってのAの性格とは異なっている。もし、両者が似通っているとすれば、それは、AとBとの人間関係と、AとCとの人間関係が、たとえばA、B、Cの三者が同じ集団に属しているなどの理由から、似通っているからにほかならない。誰にとっても同じであるような、そして、もし異なった見方をする者がいればその者を理解が浅いとか、誤解をしているとか決めつけることができるような、普遍妥当なAの性格なるものは存在しない。したがって、「客観的に」性格を検査しようとするあらゆる性格テストは無意味である。

血液型による性格診断などで「気が弱い」と書かれていたとする。
これは実は誰にでも当てはまってしまう。なぜなら「気が弱い」という性質を「他の人に気を遣って自分の言いたいことが充分言えない、やりたことが充分やれない」というものだと考えるとき、逆に「他の人びとに全然気を遣わずに、自分の言いたいことはすべて言い、やりたいことはすべてやるという人がいるわけない」からだ(そんな人がいたら社会的に抹殺されているだろうと、岸田は言う)。つまり「あなたは気が弱い」と言われれば、たいていの人は心の裡では「そうだ」と思ってしまう。

「あなたは気が弱い」といわれたときに、「絶対に違う」と言い切れる人は、おそらく周りから「気が強い」ということを言われてきて、そういった外的評価をセルフイメージとして消化している人だろう。

ここでとりあげた話はさすがに少し極端すぎるところはあると思う。

例えば、ボクは猫を飼っているが、その猫の振る舞いや態度は明らかに今までボクが接してきた他の猫とは違っていて、それはその猫の「性格」というやつではないかと思う。岸田さんに言わせれば、それは性格ではなく本能に直結した「特性」なんてことを言うかもしれないし、飼い主側が猫にそういう性格を投影しているのだと言うかもしれない。でも、やはり性格のすべてが相手との関係で決定されるというのは、少し無理があるとは思う。人間の赤ちゃんでも自我が芽生え始める頃には明らかに一人一人違いがある。それは性格というものに起因している。すべて外部環境や他者によって規定されているとはどうしても思えない。

とは思いつつも、ボクは概ね岸田さんの考え方を受け入れる。

性格とか気質みたいなものが人間の特性としてまったくないとは思えないけど、しかし、それだけがすべてではない。むしろ岸田さんが言うように、実は大部分が他人との関係や、その関係を通じて共有された認識やら、そういったものによっていかにも類型的な性格があるように見えてしまうのではないか。

性格を何かしらのタイプでわけたり、分類したりすることが悪いことではない。岸田さんのように考えなければならないというものではなく、岸田さんは単に視座を提供しているにすぎない。しかしその視座を得られるとき、人や事物にたいしての接し方、考え方のは、ただ類型的な性格に基づいて人を判断するよりもずっと大きなものを得られる可能性がある。そこが重要だろう。「彼は気が弱い」とか「自分は気が強い」「怒りっぽい」と考える前に、その視点をずらしてみる。自身ではまったく気づいていないが、他者にとって自分の行動がとてつもなく大胆な行動に映っているものもあるかもしれない。逆に、ボクが気づいてないだけで「気が強い」と決め付けていたある人は、内心では自身のことを「気弱」だと考えているかもしれない。こんな風に考える視点を得られるだけで充分だと思う。

岸田さんのテクストは、安易に「客観的な性格」みたいなものを基準としてしまうような思考のあり方そのものを疑ってみよ、という警笛みたいなものとして受け入れるのが良いのではないか。たとえ岸田さんのテクストが本当だとしても、ボクらは人それぞれの多様性を多様性のままに受け入れることには耐えられない。「性格」というものがあたかも存在するものかのように扱い、類型化したくなるのは、そうしないと不具合があるからだろう。あの人の性格は温厚だ、とかあいつは怒りっぽいとか、そういう性格判断を行っておくこと、コミュニティの共同幻想としておくことが、「人づきあい」の潤滑油みたいに作用しているのだろう。

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2004/12/06 00:08

2004年02月06日

「錯覚」利用 本物らしく

テレビなどに流れるテロップの字をぼかすと、はっきりした字よりも読みやすいことを実験で確認した。画面に二センチ角の文字を流し、十人に見てもらった。普通の文字だと一秒間に十五ー二十文字を読み取るのが限界だったが、文字をすりガラスを通して見た時のようにぼかすと、十八ー二十五文字に向上した。(日本経済新聞)
NTTが開発したテロップを読みやすくする新手法。

慶応大学では、コンピューター画面のカーソルの表示に「手触り」や「奥行き」を感じさせるシステムを開発したとのこと。
画面内に遠近法を持ち込むみたいなもんかな。
単純に解像度をあげて「美しく」見せたり、「リアル」に見せたりするのではなく、「知覚」の仕組みを利用しようという試み。

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2004/02/06 10:49

2004年01月30日

列車運転士らにカメラ付携帯電話

JR東日本水戸支店で、列車の運転士らにカメラ付き携帯電話を持たせるらしい(日経産業新聞)
列車走行中にトラブルが起きたとき、現場の様子をカメラで撮影して、会社に送る。状況が把握しやすくなる。

なるほどなぁ。しかしトラブルをケータイのカメラで撮ってたりする運転士とかいたら、知らない人見たら不謹慎だって怒るんじゃないのかなぁ...

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2004/01/30 09:39

2004年01月23日

たのみこむに「綿矢りさ写真集」の発案

たのみこむ「綿矢りさ写真集」の発案があがってる。
このコメントも面白い。

確かに綿矢りさは美少女だ。文学的センスもあるだろう。文学界にとっても優等生的存在。10年、20年もすれば、松浦理恵子みたいな存在になるかもしれない。(昔、柄谷行人率いる「枯木灘」って野球チームの試合に、松浦理恵子が応援に来るという噂が広がった途端、それまで野球にまったく興味を示してなかった多くの作家や評論家が観戦に訪れたというような話をどこかで読んだことがある)
保坂和志の綿矢りさに対する視線とかもあやしいしなぁ。

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2004/01/23 15:53

2004年01月07日

名作文学の「あらすじ本」ブーム

名作文学の「あらすじ本」ブームらしい。
各出版社もそのブームにのっとって、いろいろ出しているみたいだけけど

<名作文学>「あらすじ本」がブーム 中高年に受ける
幻冬舎は昨年11月、「あらすじダイジェスト 教養が試される名作70」を、さらに翌月に「あらすじダイジェスト 世界の名作100を読む」を出版した。両方で3万部。近く同時に重版の予定だ。「『トリビアの泉』に代表される雑学ブームに乗った」と編集担当者は分析する。

 昨年末に出た「要約 世界文学全集」(新潮文庫)は1、2巻合計4万8000部を同時発売し、こちらもすでに重版が決まっている。宣伝文句は「忙しい現代人にふさわしい新しいスタイルの読書法」。

中高年が買ってるらしいけど、もうほんと情けない。
幻冬社の出すやつは、「千夜一夜物語」も「神曲」も2ページでまとめてるとか。
おそらくまとめたやつも原典は読んじゃいないだろう。

「あらすじ本」から原典に興味持って、原典読むなんてのもあるかもしれないけど、悪い意味で「あらすじ」に支配された読み方の癖がついてしまわなければいいけどなぁと思う。

保坂和志も言ってるけど、小説とかは「あらすじ」が大事なわけじゃないだろう。小説という散文の表現形式を通じていか表現できない「何か」を表現するためにあるんじゃないのか。
「あらすじ」だけ知ってることが教養なんだろうか? そんな教養なんて、ものすごく薄っぺらくい。そんな教養にしがみつかなきゃならないなんて、悲しすぎる。。。 「あらすじ」なんて覚えてなくても、その読書体験が強烈なものとして残っていたり、どうしてもその一節が頭に焼き付いて離れなくなったり、ってそういう経験のほうが僕は幸せだけどなぁ。

「失われた時を求めて」や「フィネガンズ・ウェイク」なんかも2ページにまとめるのだろうか?

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2004/01/07 22:09

2003年12月23日

正気か? 英辞郎 on the Web

誰が見つけたんだろうね。


英次郎 on the Web のへんてこな検索結果。

キーワードに「ハァハァ」と入れて検索してみよう。

(情報ソース:それゆけ!!だよもん星


いろんなキーワードでチャレンジ!

萌え
で、「萌えー!」が例文になる。なんじゃそりゃ(笑

援助交際

おまえらのような大人がいるから援助交際が成り立つんだよ!
It's adults like you that makes the "sugar daddy" business work!

Google
は俗語の動詞で、「~をGoogleで検索する」とある。

うんこ
で検索すると、「baba〈英俗〉」とあるが、ほんと?
別のところでは、太古以来ウンコのことをババとかベベと呼んできた、なんていう記述もある。

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2003/12/23 03:37

2003年12月21日

女性用直立排尿補助機

Magic Cone

忙しいビジネスウーマン用らしい。んなアホな。

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2003/12/21 16:27

2003年12月14日

ラジコンカーを買うべきか?

同居人がなぜかラジコン飛行機を買ってきた。
昨夜、鴨川に飛ばしにいったのだが、いきなり操作不能でそのまま鴨川に墜落して冷たく黒い河を流れていってしまった。昨日の飛行機はあまりにも安物だったので、今日は、こんなやつを買った。

エンジンカーでおなじみの京商製。今、充電している。さて、今回はうまくいくのだろうか。

ボクはラジコンカーが欲しくてたまらなくて、いろいろ調べているのだけれど、この過程は極めて消費者に近い行動だろうし、ウェブサイトづくりの勉強になる。ドラッカーは「よく知られたことではあるが、二週間、自分が患者となって入院してみることほど、医者の技能を高める方法はない」と言っている。実際に、インターネットを利用していないもの、インターネットで何か買い物をしたことがないものが、クライアントへ助言できるわけがない。

ボクが真剣にラジコンに取り組んでいたのは小学生の頃だが、その頃人気だったのはオフロードカーだった。(ホーネットだとかマイティフロッグだとか、バギーチャンプとかね)
調べてみると、最近はツーリングカー系が一般的らしい。

そして、基本はシャーシのようだ。小学校の頃のブームでは、車体そのものを買うというのが普通だったけれど、今は、シャーシを選ぶことから始まる。(昔でも、たとえば京商のビートルズとスコーピオンは同じシャーシだとか、田宮のグラスホッパーは、ホーネットの廉価版で、シャーシは同じ、みたいなことはあったけれども)

そういった基礎知識的なことがわかると、じゃぁ、まずどんなシャーシを選ぶかというところがポイントとなる。

  • 初心者である
  • 飽き性なので、あまり高くないものが良い
  • でも、改造とかセットアップが好きなので、パーツ類のバリエーションがあるもの
  • 慣れれば、サーキットで練習してレースにでも出てみたい(小学校の頃はレース出場してた)

タミヤRC主要シャーシ一覧を見ると、TL-01が入門編のようだ。しかし、なんで、こういうTL-01とか、TB-01なんていうわけのわからない名前をつけるのだろう。覚えられないじゃないか。

超初心者のためのラジコン入門講座では、TB-01とTA-04、TL-01がオススメのようだ。田宮以外では、HPIのスプリント。ただ、田宮以外はパーツを手にいれたりするのが面倒そうなのであまり考えていない。(このあたりに田宮の強さがあるんだろうな)
このページ、メニューが独立したサブブラウザで構成されてるのが不便だけど、情報は充実してる。ここを一通り読んで、今のラジコンカーというのがどういうものかとうことがだいたい理解できた。田宮もこれぐらいの情報量を用意してくりゃいいのに。

なるほど、ここでもTL-01が推されてる。しかしボクは、「運動場などのフラットダートでの走行まで考慮されている」ということで、TB-01の方に惹かれる。再び、田宮のサイトでTB-01を調べる。

購入は近くのRCカーショップにでもしようかと思っていたのだけれど、買うなら楽天で見つけたラジコンカー専門店レインボーにしようと決めた。

なぜか。単純にわかりやすい。
たとえばTB-01シャーシのこの商品のページ。ページの下部には、「走行までに別にお求めいただくもの」と必要なものがすべてわかる。また、それら必要なものをセットにした商品の紹介もされている。
RCカーショップなどで店主に聞けば良いことなのだろうが、たくさん商品があると何が良いのかわからないし、知識武装していない状態だと店側のいいように話を進められてしまうんじゃないかという警戒心もある。
こんな風に、セット商品があると、すごく良い。しかもセットもタイプ別にいくつか用意されているところが親切だ。

で、今、ショッピングカートには、スバルインプレッサWRC(TL-01キット)とコース走行も考えた 電動カー用パックC(PACK-EP_C)が入っている状態だ... さて購入すべきか?

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2003/12/14 22:30

2003年12月01日

Segwayのライバル?

今年の夏にSegwayには乗った。
あれはなかなか楽しい乗り物だったけれど、こいつも面白そうだなぁ。

Embrio

HotWiredに掲載されたEmbrioの写真

Yahoo!のニュースで知りました。

ボクの同居人は、Segwayの活用方法で、Segwayで僧が市中を托鉢するのはどうか、なんてことを言っていたが、確かに面白いかも。

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2003/12/01 17:52

2003年02月26日

「に」と「へ」の違い

サイトつくってて、ボタンやナビゲーションの文言で「に」と「へ」の違いについて少し問題がでたので、調べてみました。なかなか面白いです。

~へ行く、戻る
~に登録する、~に戻る

などという文言で「に」と「へ」はどう違うのか?

一説では、

「へ」は「~にむかって」という方向性をあらわし、「に」は「なにかをしに行く」という「目的」を含むそうな。

意味的にはあまり違いはないものの、

  机の上-に-本がある (存在点)
  居酒屋-に-行く (着点)
  友達-に-ゲームを借りる (相手)

というとき、
「へ」に置き換えられるのは「~に行く」タイプのものだけ。

つまり、「へ」は方向や着点といった一定の意味に落ち着く。「に」はもう少し広い意味をもっているということでしょうか。

こういうバックグラウンドの意味を考えると、「に」を使うべきか、「へ」を使うべきかという選択ができる。
クライアントの中には、「に」か「へ」のどちらかに統一しなきゃならんと思っている人もいます。
単純な用語の統一よりも、適切に用いられているかということのほうを問うべきですね。

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2003/02/26 15:50

2001年12月15日

コタツ

京都一泊の出張。京都はなかなか寒いですなぁ。京都事務所では忘年会だそうだが、残念ながらあっしは仕事で東京に戻らねばならんかった。

寒い日の小話。くだらない話だ。
あの日もたぶんおそろしく寒い日だったのだろう。ボクがまだ小学校のころだったと思う。確か、土曜日で、昼前に学校が終わって、家に帰ってきた。
冷えた体を温めようと、コタツに足を入れると、足にふれる何かがある。。。
ん?
コタツの中を覗き込むと、そこには、ボクのために用意されていた昼ごはんが置かれていた...
うちの母はコタツが保温効果でもあると思っていたのか、冷めないようにと、昼ごはんをコタツの中に入れておいたのだ。
おかげでボクの足は、ハンバーグのソースまみれになってしまったのだが....

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2001/12/15 01:15

2001年09月11日

方言?

狂牛病に感染している恐れのある牛が北海道やら千葉やらで....
今日「吉野家」行ったばかりだって。
おそろしいのぉ。
そういえば、関西では「吉野屋に行く」ことを「ぎゅうしばこけー」などと言う。これはテレビなどでよく変に誇張されている下手な関西弁ではなく、ほんとに頻繁に使う。語尾が「けー」にまでなると、ちょっと「いやらしい」が、「ぎゅうしばこか?」なんてのは日常茶飯事。
「しばく」というのは「茶(ちゃー)」や「飯」やらにも使われる便利な言葉だったりする。

ちなみに、ケンタッキーに行くことを、「ドチキンしばこか」と言うような地域もあるようだ。これは関西全域ではない。少なくともボクの生まれ故郷では「ドチキン」などとは言わない。
が、「かしわ」なんて言い方をするときはたまーにはある。「かしわしばこけ」みたいな感じだ。どうも粋がってるヤンキーっぽくて、この言い方は個人的には嫌いだ。「ケンタしばこか」でいいのではないかと思う。

あと、最近知ったのだけれど、大学の1年、2年なんてのを、関西の大学では「1回生」「2回生」と言う。僕などは当然ながら全国で「回生」と言われているんだろうと思い込んでいて、そんなことは気づきもしなかったのだけれど、どうやら関東では「年生」の方がポピュラーなようだ。ってほんとかな?
でも「回生」ってのもよくわからん。高校までは普通に「~年生」なんて言ってたのが、大学に入るや否や、「回生」である。「ボク」だったのが「小生」とか「拙者」とか「我輩」になるような違和感も無きにしも非ず。でも、なんとなく「回生」ってのを使うのが、あぁ大学に入ったのだなぁという感慨を呼び起こさせてくれたりもする... ってこれはボクだけかな。

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2001/09/11 22:52

2001年09月09日

マッチポンプ

汚い話でごめんさい。でもほんとのことだから仕方ない。

ソフトクリーム舐めながら、うんこしなきゃならん状況って
のは、哀しいもんだね。

ぼくの家の近くには、ampmがあってだね、
ここでソフトクリームを買ったのだよ。
買って食べて始めた途端にいきなり下痢。

ここ最近は、我慢が効かなくなってるのだな。括約筋が老化してるのか、ほんと駄目。
「あ、でる」と思ったら、もう限界。
子供の頃なら、45分の授業ぐらい我慢できたし、大学のときでも、京阪急行でぎりぎり京橋、七条?だっけ五条だっけまでは我慢できた。
今は、まったく駄目ですわな。

やばいやばいって、ほんとオカマ歩きみたく、尻の穴をなるべくふさぐように慎重に歩いて、家の便所まで。

しかし。。。。

食べかけのソフトクリームぐらい保存しにくいもんはない。そうこうしてるうちにソフトクリームも溶けてくるわね。なんか、こうむなしいものを感じましたよ。

下痢でうんこしながら、溶けつつあるソフトを必死に舐めてる俺って何なんだろうってね。
おまけに今、便所の電気が切れとるのですわ。ドア閉めたら真っ暗ですわ。

「これぞ、マッチポンプか!?」だなんて、馬鹿なこと考えたりしつつ...

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2001/09/09 23:17

2001年09月08日

凡ミス

いやはや。会社なのだ。土曜日なのに。ボンミスというのは恐い。ほんのちょっとしたミスがとんでもない被害を生むのだ。

ところで「ボンミス」の「ボン」は「凡」である。平凡の凡。見るにつけて変な漢字だと思う。どうでもいいけど。

ちょっと前、この凡という字がド忘れ。でてこなかったときがあった。そのときに、S氏は、えーとえーと、「ボーンヘッドのボン」だよ.... と意味のわからんことを口走っていた。
これこそまさにボーンヘッドである。でも凡ミスではないな。

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2001/09/08 22:28

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