2005年04月13日
従業員の価値とは?
『仕事に使えるゲーム理論』のP.312「従業員の最適配置」より
ジェーンは、1日にスイッチ1個か、もしくは歯車1個をつくれる。
ビルはスイッチ2個か、もしくは歯車7個をつくれる。
この極めて単純なモデルから、従業員の能力を判断するのに必要な考え方が得られる。
ジェーンとビルを比較すれば、ビルのほうが価値ある人間であることは間違いない。
では、ジェーンを解雇すれば良いか?
表面的に見れば、ジェーンはスイッチをつくるにせよ、歯車をつくるにせよ、ビルの能力に劣る。ジェーンのパフォーマンスはビルに含まれているので、ジェーンは解雇してしまえばいいのではないか。
しかし、これは間違いだ。
仕事を交換すればジェーンは二日間に歯車7個もつくれる。これが理解できるだろうか?
答えを聞けば簡単だ。そのまま引用しよう。
あなたの会社にビルしかおらず、急にスイッチ二個が必要になった。スイッチ二個作るのにビルは1日掛かる。つまり、その日は歯車は作れない。スイッチ二個をつくるために、あなたの会社は七個の歯車を諦めることになる。ここでジェーンを雇ったとしよう。ジェーンは二日でスイッチ二個を作り終える。ビルはスイッチ作りから解放され、その時間で七個の歯車を作る。会社にすれば、ジェーンが二日働くことで七個の歯車が余分に作れたことになる。つまりジェーンは、二日で歯車七個を作れるだけの価値を持つ人間なのだ。
この極端な事例からわかるのは、会社として、組織として、チームとして、得意分野を持つ人間がそれぞれの仕事を交換することで1人で行うよりもパフォーマンスが向上するということと、従業員の能力とは、「その人自身に何ができるかだけでなく、その人に他の従業員の仕事を代行させた時、代行された従業員がどれだけの仕事をこなせるかまで考慮する必要がある」ということだ。
ドラッカーが弱みには目をつぶり、強みに目を向けろ、と言ってるのは、このような「交換」による全体価値の最適化が背景にあるのだろう。従業員の能力を考えるとき、その人の能力だけでなく、その人の存在がもたらす、チームとして会社としてのパフォーマンスも充分に考慮する必要がある。
そして、全体としてパフォーマンスが出るように仕事の交換を行っていかなければならないわけだ。
2004年11月20日
人事・評価制度を考える
今、ボクの一番の関心は、同業種の会社がどんな人事・評価制度を持っているのかということだ。人事・評価制度って詳細なものはなかなか表には出てこないので伺い知れない。デザイナーやシステム、ディレクターという職種ごとにどのような評価軸を設けているのか、あるいは設けていないのか。その評価をどのように給与に反映しているのか。「成果主義」を導入する場合、デザイナーやプログラマーといったどちらかとういと専門技能職系の人たちはどのような評価要素を設けているのか?
昇格や昇級の基準を社員は理解しているのかなど等。同業界の方、教えて下さい。あなたは自分が何で評価され、その評価がどのように給与に反映されているかを知ってますか?
人数が増えてくるにつれて、人事・評価制度の重要性は高まってくる。それまではほとんどマネジャーの一存で決めていたものが、そうはいかなくなる。「どうしてあいつが?」「なぜ私がこういう評価なの?」という不満が必ず出てくる。
もちろん人事・評価制度というのは、給与の問題だけではない。どうすれば給与が上がるのかという指標は、何を学んでいけばいいのか、何をすれば良いのかという教育や学習の指針にもなるだろうし、モチベーションを支えるものにもなるだろう。
結局、人事・評価制度というのは、どんな風に社員を教育していくかとうこととも関係しているし、社員の教育が絡めば当然、会社の方向性や文化みたいなものにもつながる。財務と並んで、人事ってのは会社の要の一つだ。
最近は「成果主義」の導入があちこちの雑誌や新聞で話題になっている。たいていの語り口は成果主義を導入。新入社員でも給与に最大いくらの差が!みたいなものばかり。どうも成果主義の嫌な面ばかりを誇張しているように思える。
「成果主義」と「能力主義」の違いは何だ?
単純に言うと、「能力主義」が「~ができる」ということに対して評価を下すのに対して、「成果主義」は「~できている」「~した」という成果に対して評価されるということだろう。(思いっきり単純化しているけど...)
人事・評価制度をつくっていくときに、ものすごく悩むのは「相対評価」と「絶対評価」の問題だ。「相対主義」では、評価を行う母集団を分母として、ある評価レベルに偏らないように評価する。評価が5段階だとして、全員が5ということはありえない。分母に対して、相対的な評価が下される。
労働分配率なんかを考えると、社員の平均年収というものを想定しなきゃならない。平均年収を想定するということは、相対的に評価するということだ。平均年収を500万円に抑えたいと思えば、3人の会社なら1人が800万円、1人400万円なら、1人は300万円になる。全員を800万円にはできない。
しかし、「相対評価」では社員同士が教育しあい、助け合い、高めていこうという文化は生まれ難いのではないか。そりゃそうだ。全員が並んでレベルアップということはありえないのだから。他人の評価が上がるということは下手すると自分の評価を下げることになりかねない。そんな状況で「育てる」なんていう発想が生まれるだろうか。
そうすると、「絶対評価」だ。全員が高い評価を受ければ、全員の給与がアップする。そういう制度が一番望ましいと思う。
「絶対評価」を行おうと思うと、「成果主義」を導入しなければならないのではないか。「能力評価」では厳密には「絶対評価」は行えないだろう。その「能力」が必ず「成果」に直結していれば良いが、そんなうまくはいかない。安くて良い商品が売れないのと同じように「能力」と「成果」は関係ないとは言えないが、絶対ではない。「能力主義」で「絶対評価」をしていたら、下手すると会社は危なくなる。全員の給与は上がったけれど、会社は瀕死。これでは当然会社も社員もうれしくはない。
「成果主義」というのは、同じ年齢の人間でもすごい価格差が出てしまう、というようなただ人間的つながりとかそういったものを希薄にするようなものではない。「成果主義」によって全員がハッピーになれる土台をつくれる可能性がある
「成果主義」を導入するとしたら、こういう考え方をベースとしなければならない。「結果がすべて」という割り切りをクローズアップするのではなく、みんなで幸せになるための考え方として捉える必要があるのではないか。
ただ、ボクは「成果」だけで評価するのもどうかと思ってる。
「成果」というと「売上」だとか「粗利益」だとか、「新規プラクティスの獲得数」だとか、そういうものだけになってしまうけれども、完全にそれだけで割り切って評価するのも危険だろう。結果に至るプロセスや考え方だって重要だし、それらを支える知識や技能だって必要不可欠だろう。「結果がすべて」という文化が広まれば、ある意味結果を生むためなら何をやってもいいなんて暴走にもつながってしまいかねない。
そうすると、最も成果を上げている人がやっていることや考え方みたいなことも「成果」として捉えたほうがいいだろう。言わば「コンピテンシー」ってやつだけど。そして、それを支えるための「知識・技能」という能力。さらに「会社の道徳規範や倫理観」(これはものすごく評価し辛い)。これらを複合して評価基準ができれば良いのではないかと思う。
うちの会社では「シニア、ミドル、ジュニア」という3階層があるけれども、「ジュニア」では「知識・技能」や「道徳規範や倫理観」での評価ウェイトが高く、ミドル、シニアになっていくにつれて「成果」や「コンピテンシー」のウェイトが高くなる。しかし、どれか一つに完全に偏ってしまわない。こういうモデルにしなきゃならないだろうと考えている。そして、全員がある意味100点満点をとれたとき、会社はその分の高い業績を実現していなければならない。
今、ボクが考えている評価方法のベースはこんな感じだ。これにどのように給与体系、処遇方法、昇級基準、昇格基準をつくっていくか。運用していくか。そんなことをここしばらくずーっと考えている。
2004年08月22日
ドラッカーに学ぶマネジメント入門
「ドラッカーに学ぶマネジメント入門」を読む。ドラッカーの入門書のようなものだが、ドラッカーがさまざまなところで語っていることがうまくまとめられている。
マネジメントを「仕事のマーケティング」という観点から整理しているのもわかりやすい。ドラッカーの視点はつねに「顧客」からスタートし、顧客が望むもの、欲するものを生み出すことをマーケティングの基本と説くが、実はマネジメントでもその考え方は同じだ。マネジメントは従業員から始まる。従業員各々の欲するところ、強みを組織化していくことが「仕事のマーケティング」なのだ。
知識を基盤とする組織は「上司」や「部下」といった縦の関係で成り立つ組織ではないとドラッカーは言う。ドラッカーは知識組織の理想系をシンフォニー・オーケストラを例にとって語ってる。
「第一バイオリンの奏者は、ハープ奏者の上司ではない。同僚である。ハープのパートはあくまでもハープのパートであって、第一バイオリン奏者や指揮者から委譲されるものではない。
オーケストラは、さまざまの楽器によって音楽という成果を創造する知識組織である。それは、さまざまな楽器の演奏者という専門家から成る専門家集団でもある。」
「それぞれの演奏者はオーケストラという組織によらなければ交響曲を演奏することはできないが、オーケストラという組織は個々の演奏者なしでは結成できず、いずれの場合も交響曲の演奏という成果を実現することはできない。その意味で、演奏者という個人とオーケストラという組織は相互依存関係にある。」
「指揮者は、よりよい演奏を創造するというオーケストラの成果を実現するために全体の調整をはかり、リードする場合もあるが、彼がトップというわけではなく、専門家という点では、それぞれのパートの担当者と同格である。つまり、オーケストラは専門的な組織であり、上下関係はまったくない。それぞれが自分のパートをこなしているうちに、シンフォニーの演奏という成果が生み出されていくのである。」
(P.135~136)
オーケストラというのは実に巧い比喩だと思う。「縦」の命令と服従の関係ではなく、「横」の関係。それは個々人が上司、部下ではなく「パートナー」である。さらに個々の「パートナー」は専門家であり、それらの専門性が一つの成果に向けて相互補完の関係をつくりあげる。このような組織形態は確かに理想だ。
オーケストラでは「成果」がわかりやすいが、会社組織においてはさもすると各従業員が「成果」を見失ってしまうことも多い。仕事に人を合わせるのではなく、人を仕事に合わせなければいけないとドラッカーは語るが、人を仕事にあわせるためには、仕事に対しての共通の価値観と目標を全従業員が理解しなければならない。トップマネジメントの役割とはオーケストラの演奏曲のような誰もが理解できる明確な目的、目標を持たせること。そして「成果」とは何かを理解してもらうこと。その語りかけだろう。
2004年08月11日
3つのチーム型
ドラッカーは組織のチーム型には「野球型」「サッカー型」「テニスのダブルス型」があると語っている。このどれかが唯一正しいというものではなく、「何をなしうるか」「何に使うか」という点でそれぞれ強み、弱みがある。(「実践する経営者」第25章◎チームの種類と使い方ー野球型、サッカー型、テニス・ダブルス型)
野球型
- 選手はチームに属してプレーするが、チームがプレーするわけではない
- 選手のポジションは固定されている
- 一人一人を評価し、目標と責任をもたせることができる
- 自らの強みを限度一杯まで伸ばすことができる。他のメンバーに調子をあわせる必要がない
- 柔軟性がない
- 例)心臓手術を行う外科チーム
サッカー型
- 選手のポジションは決まっているがチームでプレーする
- 野球型が直列なら、サッカー型は並列
- 高い柔軟性を持つが、前提条件として、サッカーの監督が指示する戦術のような楽譜を必要とする
- あらゆるメンバーがチームのリーダーに従う
- チームのリーダーが許したときのみソロを演じる
テニスダブルス型
- 少人数編成のジャズバンドや大企業の経営陣がこの型
- メンバーはせいぜい5人から7人の少人数
- 基本のポジションがあり、パートナーの強みや弱みに応じ、あるいはゲームの状況に応じ、お互いをカバーする
- チームが機能するようになるには、時間をかけて訓練を積み、共に働く必要がある
- 個々のメンバーの仕事は柔軟であっても、チーム全体の目標は明確でなければならない
- 業績をあげるのはチームであって、メンバーはチームに貢献するだけ
チームをどのような型にしていくべきか。もともと30人程度のスタッフ数のときにつくったチーム体制は、70人近くになった今となってはいろいろな弊害もでてきていると思う。現状では機能別のグループが前提としてあり、グループ内にいくつかの目的別チームが分かれている体制となっている。しかし、これが果たしてクライアントが求めるものにふさわしい体制だろうか? 機能別にグループが分断されている最大の弱点は、成果をあげるための業務がグループ単位で分断されてしまうことだ。コミュニケーションが最も必要なところで、それを難しくしているとも言える。もちろん、こういったグループ分けをとったことのメリットも多い。各グループであたえられた機能のついての洗練を行っていくには良かった。もちろんこの組織はそのままにマトリクス型に案件ごと、あるいはクライアント単位でのチームを用意していくということもありかもしれない。あるいは、まったく違う考え方に基づいて組織しなおす方法もありかもしれない。
それはディレクターや、アートディレクターといった役割や業務範囲の問題とも密接に絡んでいる。「アカウントプランニング思考」のなかでクリエイティブの一所発想、二所発想みたいな話がでてきて、興味深く読んだ。現状はどちらかというと二所発想の体制が組まれているわけだけれども、理想はやはり一所発想なのだろうなぁと思う。とすると、やはりアカウントプランナーなのだろうか。アカウントプランナーの下に、プロダクションマネジャーやアートディレクターが構成されるチーム体制が望ましいのだろうか? いやいやそもそもドラッカーは職務を設計して、その職務に合う人を探すということが組織を弱くするんだといっているじゃないか。職務は仕事の要請により規定されるが、その職務はスタッフの強みを最大に生かせるところでなければならない。うーむ。まだまだ考えが足りない。思案中。
2004年08月08日
ドラッカーメモ/貢献へ焦点をあてること・強みを生かすこと
(2)外部に対する貢献に焦点をあてること
成果をあげるためには貢献に焦点をあてなければならない。
「組織の業務に影響を与えるような貢献は何か」を自らに問わなければならない。
成果には3つの領域がある。
- 直接的な成果の領域(売上や利益)
- 価値の創造と価値の再確認の領域(要するに組織としても目的を確認したり、つくったりすること)
- 明日のための人材育成の領域(「明日自らのマネジメントに当たるべき人間を、今日用意しなければならない)
これら三つの領域で成果があげられなければ組織は死ぬ。したがって、この三つの領域における貢献を、あらゆる仕事に組み込んでおかなければならない。
人間関係のあるべき姿
貢献に焦点を合わせることによってのみ、
- コミュニケーション
- チームワーク
- 自己開発
- 人材育成
という成果をあげるうえで必要な四つの人間関係上の基本条件を満たすことができる。
「コミュニケーション」とは、「組織、おようび上司である私は、あなたにどのような貢献の責任をもたせるべきか」「「あなたに期待すべきことは何か」「あなたの知識や能力を最もよく活用できる道は何か」と聞く。こうして初めて、コミュニケーションが可能となり、容易に行われるようになる。(P.88)
「チームワーク」とは横へのコミュニケーション。「私の生み出すものが成果に結びつくためには、だれがそれを利用してくれなければならないか」と問うこと。
「自己開発」も貢献に焦点をあてなければならない。「組織の業績に対する自分の最も重要な貢献は何か」と自問し、「いかなる自己開発が必要か」「なすべき貢献のためには、いかなる知識や技能を身につけるべきか」「いかなる強みを仕事に適用すべきか」「いかなる基準をもって自分の基準とすべきか」を考えること。
「人材開発」は貢献に焦点をあてることで他人の「自己開発」を誘発すること。属人的な基準ではなく、仕事のニーズに根ざした基準を設定し、卓越性を要求すること。
(3)強みを基準に据えること
組織の役割は、人間一人一人の強みを、共同の事業のための建築用ブロックとして使うところにある。
他人に成果をあげさせるためには、決して「彼は私とうまくやっていけるか」を考えてはならない。「彼はどのような貢献ができるか」を問わなければならない。また、「何ができないか」を考えてはならない。常に「何を非常によくできるか」を考えなければならない。
強みに基づいた人事には四つの原則がある。
- 人間にはできない職務をつくらないように気をつけなければならない
- 職務はすべて、多くを要求する大きなものに設計しなければならない
- 職務が要求するものではなく、その人間にできることからスタートしなければならない
- 強みを手にするためには、弱みはがまんしなければならない。
人事考課は「できないこと」を明らかにしたり、弱みを分析するものではあってはならない。「われわれは、一人一人の人間が組織の成果のために果たす貢献について、徹底的に考えなければならない。なぜならば、具体的な成果への期待に関してのみ、人間の成果は評価できるからだ」。
「成果をあげるエグゼクティブは、通常、彼ら独自の考課方法を工夫している。そのような人事考課は、まず、過去と現在の職務において期待されるべき貢献、およびその貢献の目標に関して、実際の成果を記録する。その後、次の四点について評価する。」
- 「彼(または彼女)がよくやった仕事は何か」
- 「彼がよくできそうな仕事は何か」
- 「彼が強みを発揮するためには、何を知り、何を身につけなければならないか」
- 「彼の下で自分の子供を働かせるか
(ii)そうでないならばなぜか
ついつい評価となると、「彼(彼女)は何ができない」「あれが苦手」という欠陥探しが始まってしまう。しかし弱みに焦点をあわせた人事は組織を疲弊させるだけだろう。強みに焦点をあわせ、その強みを成果に貢献できるよう職務を設計することが必要なのだ。
今、潜在化している問題の一つは確実にここにある。