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高橋源一郎さんがtwitterしてたのね

高橋源一郎さんがtwitterを始めたそうだ。
http://twitter.com/takagengen
最近、偽物が多いんでどうかなと思ったけど、多分、本人っぽい。もともと非公開でやってたのを再登録しなおして実名で再開とのこと。
これはすごく楽しみだ。

見たら島田雅彦さんっぽいアカウントも。
http://twitter.com/SdaMhiko
島田雅彦がフォローしている人の最初が高橋源一郎で、次が平野啓一郎というのもそれっぽい。

他、こんな人たちもtwitterやってたのね。

平野啓一郎さん
http://twitter.com/takagengen

橋本麻里さん
http://twitter.com/hashimoto_tokyo

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PDCAサイクルの話の続き。WebソリューションとPDCA。

PDSじゃなくて、PDCAのほうが良い理由」というエントリーを書いたけど、この話をしたらある人から、ダイレクトマーケティングの世界なら、この「Plan→Do」がスプリットランテストで、「Chekc→Action」がそのテスト結果を踏まえた本番実行になるんだよ、というようなことを教えてもらった。

なるほどなるほど。これも重要な考え方かもしれない。つまり、PDCAは、本番前、大々的な実行の前に、ちゃんとテストしなきゃダメですよ、ということを意味しているわけだ。

ダイレクトレスポンス型の広告とかだと、「スプリットラン→本番」みたいなことは、それこそワンダーマンの時代から行えれている伝統的なプロセスだろうし、ネット広告チャンネルならば、さらにこういうプロセスを簡単に安く実行できるわけで、こういう概念は広告主側にも比較的受け入れられているように思える。(僕がお付き合いさせてもらってる代理店さんとかだと、普通にやってるけど、実際はそんなことないのかもしれない)

でも、Web制作とか構築みたいな領域では、まだまだ、こういう考え方は入り込んでいないだろうと思う。
それはクライアント側もそうだし、それをお手伝いさせてもらってる僕らのようなWebソリューション会社でも案外そうなんじゃないだろうか。

昨今の不況などもあって、大規模リニューアルにドンとお金をかけていく、みたいなのは少なくなってきているかとは思うけど、それでもやはりWebサイトソリューション分野における「効果改善」「最適化」の予算の中心は、「初期構築」「フルリニューアル」の中にある。
補足すると、「運営」だとか「運用」の予算も、トータルすると「初期」を超えるということは多々ある。が、その「運営や「運用」の予算というのは、たいていの場合、必要なコンテンツの更新やら追加やら、プロモーションやらといったところの予算であり、Webサイトの効果を高めていくことや、成果を高めるための改善みたいなところに掛けられる予算はまだまだ非常に限定的だろうし少ない。そういう意味で、「効果改善」「最適化」の予算の大部分は、「初期」や「全体リニューアル」にあるという意味だ。

1回のプロジェクトで可能な限り多くの課題や問題に取り組み、それらの解消を目指す。必然的にプロジェクトの規模は大きくなる。リスクを減らすために、事前の調査やスルーテストなどを何度も繰り返し精度を高めていく。
そうやって出来上がったサイトは1~2年ぐらい使われて、また、次に作り直すときは、ゼロベースで設計しなおす。この手のWebサイトマネジメントは一般的だと思う。先のPDCAの概念から考えると、すごいパワーや予算、期間をかけて「C→A」をやっていて、この「C」のところで、被験者テストやらスルーテストみたいなものを通じて「P→D」をやるみたいなイメージだろうか。これはPDCAとは違う。PDCAという言葉が持つ、継続性だとか持続性みたいなところとはズレている。

しかし、大きなリニューアル(C→A)を一回やることことよりも、小さな改善を継続的に繰り返していくことのほうがトータルとして見たら、大きな成果につながるということも考えられるだろう。大きなリニューアルのために、大きな予算をかけて被験者テストを実施する(P→D)よりは、実際のサイト上で、そのサイトに訪れる実ユーザーでちょっとしたテストをして結果を見る方(PDCA)が、安上がりだし、実際のデータという意味では信頼できるのではないか。

(補足:ユーザーシナリオなどの被験者テストは、テストという時点で多少のバイアスが掛かっていることは間違いない。が、しかし、被験者テストが意味がないものかというと、そんなことはない。被験者へのインタビューなどを通じて、よりユーザーの行動や心理を深く探っていくことが可能だからだ。ユーザーの心理の深堀によって、違う潜在的なニーズや懸念がわかったり、発見を得ることも多い。実ユーザーでのテストでわかるのは、所詮行動の結果にすぎない。)

例えば、Amazon。ここ数年で、Amazonはずいぶんと変わってきてる。それはビジネスの展開上での変化だけではなく、商品詳細ページでの情報レイアウトや配置、おすすめ商品の紹介方法とか、細かいところを言い出せばキリがないぐらい変わってきている。でも、「大きいリニューアル」「全体リニューアル」みたいなことは、多分、ずっとやってない。
Amazonは、トラフィックの一部でABテストを実施したりして、そこで効果よかったものを全体に反映させて(PDCA)、というような細かいPDCAサイクルを回し続けている。そのサイクルの継続性が、通時的に見ると、ライバルとのすごい差となって現れてくるのだろう。共時的にはAmazonの変化はなかなか可視化しにくいし、可視化できても些末な一箇所だったり、部分的、限定的なものにすぎなことが多くて、よく分からない。が、通時的には大きな変化、差として現れてくる。Amazonと似てるといえば、Googleなんかもそうだ。一気に全部を変えるなんてことはしない。テストを繰り返しながらちょっとづつちょっとづつ変えていく。

すべてのサイトでAmazonやGoogleみたいなことができるわけでもないだろうし、そもそもこういうPDCAサイクルをまわして効果改善していくことが向かない特性のサイトだってある。でも、少なくも、サイトで何らかの直接的な成果を求めるサイトでは、こういう考え方やプロセスは、大リニューアルの時のようなリスク(そのサイトやサービスに慣れたユーザーから離脱されるというリスク等)も少ないので、非常に効果的だろうと思う。

「初期」や「大リニューアル」偏重でWebサイトマネジメントを行って行くことの問題は、まだある。
それは、大きいリニューアルをしても、その会社がその市場や業界のリーディングカンパニーであればあるほど、競合にすぐ真似されてしまう、ということだ。

イーバンク銀行のサイトを左右反転したら、三井住友銀行になった – Feel Like A Fallinstar

イーバンク銀行のトップページの情報配置が、SMBCのそれを左右反転してるだけ、という指摘があったけれど、この手の模倣というのはこの例に限らず少なくない。
オリジナルのサイトやページは、もしかすると何ヶ月も、ものすごいパワーをかけて、様々な意図やら試験やらを経て、ようやく辿り着いたものかもしれない。でもそんな努力の結晶は、いとも簡単にさっとさっと剽窃されてものすごく短く安価なコストで作られてしまう。大きいリニューアルなんてのは、たいていの場合、ライバルに差をつけたり、より顧客にニーズに広く深く対応したりというためにするんだろうけど、すぐ真似されてしまうと、全然差別化にならないかもしれない。

もちろん、Webサイトは、全体の構造や構成、それに企業のブランドやらユーザーニーズやら、いろいろな条件が複合的に絡まってるものだから、単純に特定ページのレイアウトや構造を似せたら、それでその会社と同じような効果や成果が生まれるというようなものではない。
まあ、とはゆえ真似される側はあまり気持ちよいものでもないだろうし、なんとなく自分たちがかけたコストや、そのコストに対して期待していたリターンの一部が、言い方は悪いけれど、パクられてる感じがしないでもないのではないか。

ほとんどのWeb制作会社は、クライアントの提案に、競合調査みたいなことをしていると思う。クライアントからも、あそこはどうなってるのか、と問われることも多い。そして、やはりその業界で先を走ってる会社やそのサイトは、目標となることは多い。(クライアントからも、あそこに似せてくれ、みたいなオーダーでくることも少なくないだろう)
本来は、そうではいけないのだろうけれど、そこがうまくいってる(ように思える)ならば、その良いところをうまく自サイトにも組み込みたいと思うのも自然なことだろう。

この時に、大きな変化や構造やら、設計のポイントやらみたいなところ、簡単に目につくところというのは、当然ながら、真似されやすいものだ。構造やら設計やら、コンテンツ内容やら見せ方やら、そういうものは真似しやすいのだ。

しかし、PDCAサイクルを真似るのは難しい

PDCAサイクルを回してることはわかったとしても、それがわかることと実践することは全然違う。ゼロからサイトを作ることや、フルリニューアルすることは、言ってしまえば、金さえあればなんとかなるのだろうけれど、PDCAサイクルを回していくという領域は、金だけあればなんとかなるというものでもない。

クライアントの中には、なんでテストにお金をかけなければならないだ、プロなら一番良いものを作るのが仕事だろと怒るところもあるかもしれない。また、細々とした小さな改善はあまり目立たないし、派手さもないので、Webサイトの改善にお金を使うこと=見栄えが変わること/デザインが変わること、と思い込んでるクライアント(そういうクライアントは意外と多い。そして、そういうクライアントに迎合する代理店も多い。)にはなかなか理解してもらい難い概念だったりする。

でも、いち早く気づいて、これに取り組んでいければ、そこは長期スパンで見れば、すごいアドバンテージを得ることになるだろうし、持続、継続できればできほど、その時間や期間も大きな差となるに違いない。

他社を出し抜く画期的で凄いサイトをどーんと立ち上げるのもいいが、他社も気づかないような改善を何度も何度も繰り返し、その結果、気づけば他社に圧倒的な差をつけていた、なんてのも凄くカッコいいことだと思うのだが。
このあたりの啓蒙活動というのもやっていかないといけないのだろうなと思っている。来年のうちの会社の大きいテーマの1つだ。

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PDSではなく、PDCAのほうが良い理由

当たり前のことに気づいた。

最近はアクセス解析やら分析やらが一種のブームみたいなところもあって、やたらと「PDCA」だとか「PDCAサイクル」みたいな言葉が溢れてるわけだけども、前々から、PDCAって、なんでPDCAなんだろうと思ってたんです。

DoとActionって同じじゃないの、とか。
PlanとCheckも同じような意味だな、とか。

だから、Check→Actionを一つにして、「Plan→Do→See」なんて言い方もされるんだろうけど、どっちかというと、このPlanDoSeeのほうが、MECEなんでいいんじゃないかと思っていたわけです。

でも、最近、はたと、なぜPDCAなのか、なぜPDSよりPDCAの方が良いのか、ということに気づいたわけです。

こんなことは皆とっくにというか、当たり前のように理解してることなのかもしれないけど、ボクは全然気づいてなかった。なんか新鮮だったので、恥ずかしげもなく晒してしまおうと思う。

それは、要するに、このP→D→C→A という一連のフローで、一つの単位なんだ
よ、ということ。それが大事なんだろということです。
(なんか最もらしいこと言ってますけど、むちゃくちゃ当たり前のこと言ってますね。スイマセン。)

例えば、Plan→Do→Seeの場合。
Webサイトの構築って業務にあてはめて考えてみたら、
仮説や設計やらして、Webサイト作って、その結果を見る。ここまでで1サイクルが終了となる。

もちろん、Seeから、次のPlanに進んで行くわけだけど、でも、Plan→Do→Seeだと、なんとなく、Seeの検証とかチェックとか、総括でもって1単位が終わっちゃう感じがする。あくまでも次のPlanは別サイクルで、それはもしかしたら最悪やらないこともあるかもしれない。

Plan→Do→Seeで終わって、なんとなく問題やら課題がわかって、なるほどなるほどと関心してそれで終わり。気持ちを新たにまた別のPlanが始まってしまう、みたいなことね。ここまで極端ではないにせよ、意外とそういうプロジェクトってあるんじゃないかと思うわけです。

一昔のWeb構築のプロジェクトなんか特にこういうのが多かったんじゃないかな。

大規模なサイト構築とかリニューアルで、一旦終了。その後、半年ぐらいたったら総括的な分析とか課題抽出する。だいたいこれが一区切り。そこで見つかった課題やらは、次のリニューアルの時の、つまり次の「Plan→Do→See」の「Plan」の材料にしましょう、ということで終わる。

でも、今はこれじゃダメなんでしょう。

1年とか2年とかに1回、大規模なリニューアルとか全取っ替えとかするという発想から、細かい検証→改善のサイクルを回していく運営やマネジメントに切り替えていかないといけないんじゃないでしょうか。

そういう発想だと、PDCAという言葉のほうが良いわけです。

「C→A」までやって1単位。これをサイクルとして回していく、ということで継続的な改善ができる。「PDCA」という言葉のほうがより明示的なんじゃないかと。

P:仮説やシナリオやらを立てる。
D:作業やら実装やら制作やら
C:観測したり、検証したり、分析したり
A:その結果を持って、手を入れる

この最後の「その結果を持って、手を入れる」という、ここまで実行して、1単位、1サイクルなんだよ、ということです。

改善のプロセスというのは、「C→A」というところまで遂行しないと、意味ない
んじゃないのという認識を共有するために、あえてPDCAとなってるわけですね。

と、考えると、自分が普段何気に、お客さんに「PDCAサイクルが重要です」とか、「PDCAサイクルを構築しましょう」と提案していることは、まだまだ浅いなぁと痛感したわけです。

PDCAと言いながら、「Plan→Do→See」の「See」で終わってることも多いなぁと。そこで予算切れとか。

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セレンディピティと素直さ

KAYACの柳澤さんが日経BPで連載している「面白法人カヤックのいきかた」というブログの中でこんなエピソードを披露している。要約するとこんな感じのことを書いている。

高校時代に尊敬できる漢文の先生がいた。
その先生が柳澤さんが高校3年の1年間の授業の終わり頃に、「俺が教師をしているのも、そもそもお前らにこの本を読ませたいからだ!」と1冊の本を紹介した。
そんなに熱く薦められて読まない訳にはいかないだろうと、柳澤さんはすぐに本を手に入れて読んだ。
次の週(最後の授業)に、先生が「読んだ人!」と挙手確認したところ3人ぐらいしか手が挙がらなかった。
「素直に読んでみようと行動に移す人は、意外と世の中は少ない」「さらに、その3人のうち、その本に書いてあったことを受け止めて、先生がなぜ、そんなに薦めたかったのかを素直に感じ取れる人となれば、皆無な気する」
(「話題のキーワード「セレンディピティ」なエピソード」より)

このエピソードと「セレンディピティ」というキーワードを結びつけ、こういうところでの「素直さ」(素直に受け止め、そして行動に移したり考えたり出来ること)が「セレンディピティ」につながる。そういう「素直さ」を持たなければセレンディピティな人間にはなれない、セレンディピティなことも起きないのではないか、と語っている。

「セレンディピティ」とは、Wikipediaによると簡単に言うなら「ふとした偶然をきっかけに、幸運を掴む事」とある。つまり「ふとした偶然」や「幸運」というのは、こういう素直さや行動によって生まれるのであって、決してただたまたま運が良かった、ついていたということだけではないのだろう、ということだ。

ボクもこの意見には同感だ。

そして、このエピソードからボクが感じるもう1つのことは、ここで言うところの「素直さ」を持ち合わせている人が少ない、ということ自体が、「素直さ」を持ち合わせている人たちにとってチャンスなのではないかということだ。

クラスの全員がこの先生の言葉に従って本を手にとって、先生の意図や考えを理解しようと実行に移したら、そこには差が生まれない。この差が幸運をつかんだり、頭一つ抜け出したりするために必要なことなんではないかということだ。素直じゃないと大成しないとか成功しないとか、そういうことを言いたいわけではないが、このような「差」がいろんな場面で積み重なるから幸運だとか偶然だとかに偏りが生まれるんじゃないだろうか。(それはもう「偶然」ではなくて「必然」なんじゃないか…)

運も実力のうちというが、全部が全部ではないにせよ、何か幸運を引き寄せたり、偶然を味方させていくには、こういう素直さも含めて、他の人はあまりやらないことを自らやってみる、そのことの積み重ねの上に成り立っているんじゃないだろうかと思う。
誰もができることや誰でもやってることをやってても、そこには「差」はでないだろうし、結局「差」がでるのは、大部分の他の人がやってないことをやるときなんだろう。

例えば、仕事のシーン。その分野ですごく優秀な人や先輩、恩師から、この本は君のためになるから読んどいたほうがいいよ、と薦められたとしても、実際、それをきちんと読む人はおそらくごく僅かだろう。

読んだごく僅かな人間が読まなかった人間よりも必ず成功するかというと、そうとは限らないだろうけれども、そういう機会やチャンスで少しづつ少しづつ素直に受け止め、行動に移していっていれば、いつしか行動してなかった人との差はとてつもなく大きいものになっている。そして、その差はいろんなところに影響を及ぼすだろう。偶然幸運にめぐり合うことや発見といったものだけに限らず、出世だとかそういう下世話なレベルのところでも、こういう「差」が影響するんではないか。

ボク自身は「素直」かどうかといわれれば、かなり「素直」な方だろうとは思う。
尊敬する人や信頼する人から薦められた本はほとんど読むし(ただ読むだけじゃ意味ないけど)、何かこうしたらいい、ああしたらいいというようなアドバイスも基本的には可能な限り受け入れる。
ある意味ものすごく単純で影響を受けやすいということなのだろうが、そういう素直さがボクにいろいろな幸運やチャンスやらを与えてくれてきたんだろうなぁとも思う。(そんな風に楽天的に考えている)

仕事を始めたばかりの頃に、ある人から誰かの話を聞くときには、必ずメモ用の手帳、筆記用具をもって、その人の言葉をメモしなさい、とアドバイスを受けたことがある。人の記憶力はそもそもそんなによくない。だから紙に書いておくこと、そしてそのメモは必ず後で見返して見ること。また、話をしている人にとっても、メモされるというのは悪い気分ではないから、お客さんや目上の人の話は特に気をつけなさい、というようなことを教えてもらった。それ以降、ボクはどんな時でもたいてい手帳は持ち歩いているし、けっこう些細なこともメモするように心がけている。
そういう習慣はすごくボク自身の為にもなってるし、また気づいていないだけかもしれないがお客さんなどにも好印象を与えてるかもしれない。

こんなのは当たり前の礼儀作法だろう、って意見もあるかもしれないけど、でも実際、こういうことをアドバイスしても実際、きちんとできる人は少ない。それは教える側、アドバイスする側に立つとほんとうによくわかるよになった。

これだけは習慣にしといたほうがいい、これだけは読んどいた方がいいと奨めてもほとんどの人は「ふーん、なるほど。機会があれば…」と流すだけだ。自分の興味や関心とよほどマッチしなければ手を出さない。一度、流したら、まずそんなことは覚えてないので、そのまま忘れ去れることのほうが多い。

でも、そういうときに素直に受け止めて実行に移せた人というのは、自分はラッキーなんだと考えたほうがいいかもしれない。それはボクのアドバイスが良い悪いというようなレベルを超えて、そういうセレンディピティを引き寄せる「素直さ」を持ち合わせているということに。なにせ、他の多くの人はやってないのだ。全員がやってることをやるのは当たり前。やってないことをやるから差が生まれるのだから。

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消費社会とは?

吉本隆明がこんなことを言っている。

消費社会というのは生産と商品の間に時間的、空間的なズレや乖離が発生してしまった社会のことだと。
もともと消費というのは生産と同じであった。何かしらの消費が発生する場合には生産があり、また生産があるということは消費があるということで、これらは一心同体だった。
ところが、第三次産業が発達してくると消費と生産との間に距離がでてくるようになる。それが非常に広範囲に及び今、自分が消費していることと、その表裏一体であった生産というものの結びつきや関連が見なくなってしまう、こういう状態が「消費社会」なんだと。

わかりやすい例なら、第一産業がほぼすべてであった社会モデルを考えればいい。確かにそこでは農作業や漁業、狩猟みたいな生産行為と、それを食べたり飲んだり、加工したものを道具として利用したりという消費行為とはほぼ目に見えるような形で成立していて、そこには隔たりがない。
第三次産業が発達してくることにより時間的・空間的な隔たりが生まれてきて、生産と消費の関係性が見えなくなってしまう。

言われてみれば当たり前だし、こういう認識点にたったところで、じゃぁそれで?となるわけだけど、でも知というものの大部分はそういうものなんだろうと思う。

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