Category Archives: 書籍・雑誌

芥川賞二作品を読んで

4087714470 

4062175614 

何かと話題だった今回の芥川賞受賞作二作品を読んだ。まったくタイプの違う作品で、「共喰い」が文学の「ド直球」だとすれば、「道化師の蝶」は「ド変化球」というべきだろうか。どちらも小説好きならかなり愉しめる作品だと思う。

田中慎弥さん「共喰い」の第一印象は、大江健三郎に憧れながら、それを乗り越えようともがき苦しんでいた初期の中上健次だ。田中さんはこれをあえて意識的にやっている。中上健次などの王道が好きな人なら必ず唸るんじゃないだろうか。川辺の部落の閉塞感。連鎖していくグロテスクなイメージ。そして暴力。エディプスコンプレックスの克服などの古典的なモチーフをてらいもなく持ってこれるところもある意味強いというか、やっぱり自信があるからだろう。すごく文学的で古典的な臭いすら感じるけど、こういう小説は最近読んでなかったのでなんか新鮮だった。実際、小説の技工としては、かなり高いレベルに達していると思う。職人技のような感じで、うまいなーというため息が漏れそうになる。田中さんの自信満々のあの発言は、自身の作品の揺ぎない自信に支えられているのだろう。

円城さんは他の作品も好きで読んでいる。田中さんが文学的な修辞の極地を目指してるとするならば、円城さんは「修辞」そのものを捉まえることを試みているのだろうか。「ド変化球」であるがゆえに、逆に、現代の文学のおいては「ど真ん中」を行ってるとも言える少し不思議な作品だ。一時期の筒井の実験小説を思わせるような作風で、最近の作家の中ではけっこう好んで読んでいる方かもしれない。

道化師の蝶」からは、少し長いけど次の箇所を引用しておく。円城さんが求めたもの、「道化の蝶」がまさに、次の箇所で語られているような「意味のない」「相矛盾」し、「脈略さえも無茶苦茶」だけれども文学としては成立しているような、そんな言葉だったのではないか。

 意味のない、相矛盾する、脈絡さえも無茶苦茶なお話がそこにあるとする。でもこの世の中のどこかには、そんな無理無体なお話を整合的に成り立たせる言葉があったりしないだろうか。翻訳してみてそれはありきたりのお話となり、どこがおかしいのかが隠蔽される。
 別に難しく考えなくとも、日常の会話にはそんな要素が多くある。互いの話は聞いていないし、前言は容易く翻されて、間投詞や相槌が盛んに割り込み、反復が多く行われる。わたしたちは流れの中でそれを会話として捉えているが、音をそのまま文学に起こして定着すると、何が言われているのかわからなくなる。
 (略)
次の文は嘘を言っている。前文は真実を言っている。この二文を読み流して問題はなく、生真面目に見つめるならば何かが起こる。次の文が嘘を言うなら、次の文は、前の文は嘘を言っていると主張していることになり、前の文が嘘を言っているなら、その主張は次の文が真実を言うとなり、次の文は、前の文は嘘を言っているとなる。
 でもしかし、そこでの矛盾の解消やら生成やらを、単語で行わなければいけないという決まりはない。そんな事態が文法的に解消されたり生成されたりする言葉というのはないものだろうか。
 繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語というのはないものだろうか。
 単に気がついていないだけということは。
 流れが尾を噛み輪になれば、それはもう流れではななくなるだろう。

Popularity: 1% [?]

Posted in 書籍・雑誌 | Leave a comment

「ポトスライムの舟」(津村 記久子)

4062152878

ポトスライムの舟

はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る

これは石川啄木の有名な歌だけれども、この小説で描かれてる世界はこれに近いといえば近い。
ただ、決定的に違うのは、「ポトスライムの舟 」には悲哀や悲壮感みたいながないものがないということだ。

啄木の歌にはこの苦しい生活や、この生活を強いる社会、あるいはこんな生活を送りながら浪費的な生活をやめられない自分への嘆きが込められているのだけれど、この小説にはそういう響きはほとんど感じない。爪に火を灯す生活ではあるけれど、悲壮感を煽り立てたりということもない。また、こういう生活からなんとしてでも脱出したい、這い上がりたいというような強い意思もない。かといって、後ろ向きで諦めているわけでもない。

これが自分たちの日常であり、これが続いていくんだろう、これを受け入れようというような自然な態度がたんたんと綴られていく。だから、「世界一周旅行」と自身の年収がほぼ同額である発見からお金を貯めようという意気込みはあるが、そこには絶対的にそこに向かって邁進するのだという強い意思はなく、その目標は、一種、生活にリズムを作ることや、延々と続いていく生活の中でなんとはなしに見つけ出した愉しみであり、ゲームみたいなものとして捉えられているのだろう。
「安いコップに差して水を替えてるだけ」なのに、「まったく萎れる様子が」ないポトスライムが「なんだかんだと生きていける」ということの象徴なのだろうか。

扱ってるテーマというか状況は暗くて重苦しいのかもしれないけど、そこに深刻さを帯びさせないようにしようというのが、作者の意図なんだろうと思う。本来この小説の主人公の「ナガセ」は、そのまま一人称の「ワタシ/私」などに置き換えても、ほとんど不都合がないのだろうけれど、あえて三人称を採用してるのも、主人公視点からだけ日常を捉えてしまえば、どうしてもそこに悲壮感や悲哀が生まれてしまうからだろう。

Popularity: 1% [?]

Posted in 書籍・雑誌 | Leave a comment

国語の教科書の名作「車掌の本分」

4895283704

ムショウに「車掌の本分」が読みたくなった。
「車掌の本分」は、小学校の4年か5年ぐらいの国語の授業でやったのだとばかり思っていたのだけれど、調べてみたら中学2年生だった。記憶というのはあてにならないものだ。確かに考えてみれば「車掌」という言葉も「本分」という意味も、小学生のその歳ではまだ早いのかもしれない。
僕は、なぜか、この小説を安部公房の小説だと勘違いしてて、その後、高校になって安部公房にハマるキッカケとなっている。まぁ、結果的には良かったが。確かに安部公房っぽさがなくもないが、当時はまだ安部公房の小説を読んだこともなかったはずなので、なぜ、この小説を安部公房の小説だと勘違いして記憶してしまったのか、その理由についてはよくわからない。

当時、僕がこの小説が好きだったのはそのシュールな設定だ。車両を増設してしまったがゆえに、最後尾の車両のはずの車掌の車両が、先頭にいってしまい、本来一番後ろから運転士たちを見守るはずの車掌が、今や自分のすぐ背後に運転士がいて、反対に見られる立場に立ってしまう。たったそれだけのことだが、そのことに「車掌」は思い悩む。しかし、動物園の飼育係や運転士は全く気づかない。車掌や運転士がサルなのに、どこかのサラリーマン、企業戦士のように大真面目に考え、悩み、仕事に望んでいく。その光景がすでに相当シュールだ。そもそもサルなのに。「本分」もなにも、車掌の役割もなにも、そもそもが訓練されて条件反射で動かされているというのに。

この話を「会社」とか「社会」に当てはめて読む、なんてのはいかにも国語的な読み方で、多分、中学んときもそういう読み方を強要されたのかもしれない。「車掌」の考えてることと、飼育係や動物園の経営陣たちとの意識や視点のズレの問題としても読み取れるだろうし、ある種のモチベーション論としても捉えられるかもしれない。深読みして無理に意味づけすれば、単純労働とやりがいとか、金銭的な報酬と、役割や承認欲求を満たすことでのモチベーション喚起、とかってテーマにもつなげていけるんだろう。でも、そうやって何かに置き換えて意味を探らなくても、やっぱりこの小説はこの小説そのものとして、ちょっと変で、面白い。

Popularity: 1% [?]

Posted in 書籍・雑誌 | Leave a comment

マイケル・コナリー「ブラッド・ワーク」(Michael Connelly「Blood Work」)

0446602620 「Blood Work 」新年一発目の紹介は洋書。昨年に公認会計士の梅山先生に教えてもらった本だ。
教えてもらうまで、マイケル・コナリーのことは全く知らず、本書がクリント・イーストウッドが監督・主演してる映画にもなってるとも知らなかった。梅山先生からは、コナリー作品はとにかく面白いから読んでみるといい。まず、最初に読むなら、コレということをで薦められたのが本書だった。

英語も平易で読みやすい。英語の勉強にはちょうどいいぐらいの題材かもしれない。梅山先生から、わからない単語がでてきても辞書は使わずに読まないといけないよ、とアドバイスをもらっていたので、一切辞書は使わずに挑戦してみたけれど、実際、なんとかかんとか読めた。多少わからない単語も出てきても、ほとんどは推測でわかるし、読み進めていけばストーリーを追いかけたりするのに支障が出るようなものはなかった。(多少苦労したのは個々の難しい単語よりも、むしろ簡単な基本動詞と前置詞や副詞の組み合わせの方で、こちらの方が最初は戸惑った。)
英語の勉強をしてて、一番嫌なのは、大好きな趣味の読書の時間が削らないといけないことだったのだけれど、こういう面白い小説を洋書で体験できるならば、趣味と実益が兼ねられて一挙両得だ。

主人公は心臓移植を受けて引退した元FBI捜査官マッケイレブ。ある日、彼の元へグラシエラという女性が現れ、姉を殺した犯人の捜査を依頼する。彼女の姉はコンビニ強盗に遭遇して殺されたのだが、マッケイレブが移植を受けたその心臓は、まさにその殺された姉の心臓だった・・・・
ストーリーは、マッカレイブの捜査過程をそのままなぞって行く形で進んでいく。ある事件とある事件がつながり、現場に遺された備品やわずかな痕跡から事件の真相が徐々に明らかになっていく。ミステリー小説での定番の「どんでん返し」も、無理な設定を作って、無理矢理「どんでん返し」を作ろうとしたわけではなく、自然な流れから意外な事実が明らかになっていくので、違和感なくすんなり受け止められる。人間の心理とか病理も描きながら、きちんとエンターテイメント性も兼ね備えた作品に仕上がってる。クリント・イーストウッドが題材にしたくなる気持ちも少しわかる。

Popularity: 1% [?]

Posted in pc関連, 書籍・雑誌 | Leave a comment

スティーブ・ジョブズが愛した音楽/ボブ・ディラン

ウォルター・アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ」を一気に読んだ。
今回は、本書の中身について云々というのは触れず、ジョブズが愛した曲やミュージシャンを取り上げようと思う。
ジョブズは60年〜70年代のロックやニューミュージックをとても愛していた。中でもディランには並々ならぬ熱意を注ぎ、のめり込んでいる。

■ミスター・タンブリン・マン
本書の小見出しには、音楽好きのジョブズに配慮してか、ジョブズが好きだったビートルズやディランの曲名がいくつか使われている。例えば「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などだ。この「ミスター・タンブリン・マン」もそのうちの一つ。もちろん著者は音楽業界を魔法にかけて巻き込んでいくジョブズを「ミスター・タンブリン・マン」だと捉えたのだろう。

B0009V92SG12弦ギターの美しいイントロが特徴的なThe Byrdsのカバーバージョンが有名になってしまった感もあるけど、もちろんオリジナルはディランだ。アルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」(1965年)に収録されている。アルバムとしては5作目で、ちょうどフォークからロックへの転換期にリリースされたものだ。この後、歴史的傑作と称される「追憶のハイウェイ61」を1996年にリリースし、ディランのロックスタイルは決定的なものとなった。B0009V92SQ 

ジョブズは、この頃のディランについて次のように語っている。

1966年のヨーロッパツアーが最高だ。アコースティックギターで何曲か演ってすごい拍手を受けるんだ。で、のちにザ・バンドとなる連中をステージに上げるとエレキで演奏をはじめて、会場からブーイングが出たりする。「ライク・ア・ローリング・ストーン」を歌おうとした瞬間には、会場から「裏切り者!」って声が上がっていね。それにディランは「めいっぱいでかい音で演やるぞ!」ってがんがんにいくんだ。ビートルズも同じだった。進化し、前に進んで、自分たちの芸術を少しづつ高めていった。僕もそうありたいと努力してきた──前に進んみ続けるんだ。そうでなければ、ディランが言うように、「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。

ボクもこのあたりの映像は、「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム [DVD] 」で観たが、「フォークのディラン」を期待する観客の前で罵倒されながらも飄々と演奏し、歌うディランの姿には、やはり心うたれるものがある。

1966年のライブでの「ライク・ア・ローリング・ストーン」。かっこ良すぎ。

B000A3H6I6 B000JBWY4Uジョブズはディランを相当愛していたようで、彼のiPodには、ファーストアルバム(1962年)の「ボブ・ディラン」から1989年「オー・マーシー」までに発売されたアルバムのうちの15枚と、それ以外にも海賊版の作品集なども6つも入っていたと紹介されている。ジョブズは「血の轍」以降のアルバムをあまり高く評価はしていないようだ。
アップルから追放されたちょうどその時、ディランのアルバム「エンパイア・バーレスク」が発売され、ジョブズはハーツフェルドとアルバムの何曲かを聴くが、どれも気に入らない、というエピソードが紹介されている。

ボクが初めて買ったディランのアルバムは、実はこの「エンパイア・バーレスク」だ。当時、ボクはビートルズにどっぷりはまってて、ビートルズの文献やら記録映画やら雑誌やらを漁っていた。姉がビートルズファンクラブに入ってて、その会報誌もかなりの数が家にあったし、ビートルズ関連の書籍も当時としてはかなりの数があったので、ボクはそういうものを手当たり次第に読み漁っていたのだ。その過程で必然的に、ディランと出会うのだが、ボクが嬉しかったのは、ディランは今もなお活躍していたということだった。ビートルズはすでに解散し、ジョン・レノンはすでに凶弾に倒れてしまっていたのに対して、ディランは当時もなお伝説を作り続けていた。(でも、まぁ一般的には「オー・マーシー」ぐらいまでの何作かは、ディランの暗黒時代というか、ディラン史の中からも葬り去ってる人も多いと思うが) で、このアルバムを手にするのだが、当時はディランの歴史をきちんと知らなかったということあって、ボクはこのアルバムをけっこう聴きこんでいる。なので、今回、本書を読んで、久々に気になってこのアルバムの収録曲をYouTubeで聞き返してみたのだが(すでにアルバムは手元にはない。)、思い入れみたいなものもあるのだろうか、やっぱりそんなに悪いとは思えなかった。これはこれでディランなんじゃないかなと。
当時観たいと思いつつ、観ることができなかった「Tight Connection to My Heart」のPVを今回初めて観た。日本が舞台で倍賞美津子が登場する。ディランの下手な演技がなかなか笑えるのだ。

■いつもの朝に(One Too Many Mornings)

あのジョブズでもディランと初めて対面したときは口が聞けなかったそうだが。ディランからお気に入りの曲を尋ねられ、ジョブズは「いつもの朝に」を上げ、ディランはそれをコンサートで歌ったという逸話が残されている。

1964年のアルバム「The Times They Are a Changin’」の収録されている曲だ。
B0009JK0R0 
もちろんアルバムタイトルともなったディランを代表する曲の一つと言っていい「The Times They Are a Changin’(時代は変わる)」は、1984年の歴史的なアップルの株主総会の開会宣言の詩として引用されている。「・・・・今日の勝者も/明日は敗者に転じるだろう/時代は変わるのだから」という箇所を引用し、世界を支配しよとするIBMに対抗し、世界を変える救世主として「マッキントッシュ」を紹介する。

■ディランのiPodコマーシャル
実はこのCMをボクはあまり覚えてない。この頃、ディランにもう興味を失ってしまっていたというのもあるのかもしれない。アルバム「Modern Times」とのタイアップで、ディランの再評価、若い新しいファンの獲得に一躍を買うことになったCMだ。このプロモーションがきっかけとなり、その後、多くの有名アーチストがこぞってiPodの広告に出たがるようになった。

■ジョーン・バエズ
ジョブズの元彼女だ。1982年にあるきっかけでジョブズはバエズと出会い付き合い始める。ジョブズが27歳、バエズは41歳。ジョブズがバエズに惹かれたのは、必ずしも彼女そのものの魅力や才能だけではなく、やはりディランとの繋がりが大きかったのだろうと推測されている。1960年代はじめ、バエズとディランは恋人同士だったからだ。
ジョブズのiPodの中に収録されている曲として、バエズの「愛はちょうど四つの文字のよう」が挙げられている。しかしこの日本語タイトルって凄いな。
原題は「Love is just a four letter ward」のこと。曲を書いてるのはディランだ。

ジョーン・バエズは、ディランつながりで知ってはいたけれど、きちんと聴いたことはなかった。ディランの曲というのは、The Byrdsにしても、PPMにしてもそうだが、他のアーチストが演やると、本人が歌ってる時にはよくわからなかった美しいメロディが浮かび上がってくるから不思議だ。こういう曲を聴くと、ディランがコンポーザーとしても極めて優秀で、繊細なメロディを生み出す能力を持っていたということがよくわかる。

■フォーエバー・ヤング

もう一曲。ちょくせつこの曲が出てくるわけではないが、ジョブズの息子のTシャツにプリントされていた文字として出てくる「フォーエバー・ヤング」。大好きな曲の一つなのでこちらも紹介しておこうと思う。

Popularity: 2% [?]

Posted in 書籍・雑誌, 音楽 | 1 Comment