国語の教科書の名作「車掌の本分」

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ムショウに「車掌の本分」が読みたくなった。
「車掌の本分」は、小学校の4年か5年ぐらいの国語の授業でやったのだとばかり思っていたのだけれど、調べてみたら中学2年生だった。記憶というのはあてにならないものだ。確かに考えてみれば「車掌」という言葉も「本分」という意味も、小学生のその歳ではまだ早いのかもしれない。
僕は、なぜか、この小説を安部公房の小説だと勘違いしてて、その後、高校になって安部公房にハマるキッカケとなっている。まぁ、結果的には良かったが。確かに安部公房っぽさがなくもないが、当時はまだ安部公房の小説を読んだこともなかったはずなので、なぜ、この小説を安部公房の小説だと勘違いして記憶してしまったのか、その理由についてはよくわからない。

当時、僕がこの小説が好きだったのはそのシュールな設定だ。車両を増設してしまったがゆえに、最後尾の車両のはずの車掌の車両が、先頭にいってしまい、本来一番後ろから運転士たちを見守るはずの車掌が、今や自分のすぐ背後に運転士がいて、反対に見られる立場に立ってしまう。たったそれだけのことだが、そのことに「車掌」は思い悩む。しかし、動物園の飼育係や運転士は全く気づかない。車掌や運転士がサルなのに、どこかのサラリーマン、企業戦士のように大真面目に考え、悩み、仕事に望んでいく。その光景がすでに相当シュールだ。そもそもサルなのに。「本分」もなにも、車掌の役割もなにも、そもそもが訓練されて条件反射で動かされているというのに。

この話を「会社」とか「社会」に当てはめて読む、なんてのはいかにも国語的な読み方で、多分、中学んときもそういう読み方を強要されたのかもしれない。「車掌」の考えてることと、飼育係や動物園の経営陣たちとの意識や視点のズレの問題としても読み取れるだろうし、ある種のモチベーション論としても捉えられるかもしれない。深読みして無理に意味づけすれば、単純労働とやりがいとか、金銭的な報酬と、役割や承認欲求を満たすことでのモチベーション喚起、とかってテーマにもつなげていけるんだろう。でも、そうやって何かに置き換えて意味を探らなくても、やっぱりこの小説はこの小説そのものとして、ちょっと変で、面白い。

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