カンバセイション・ピース

保坂和志の書くものは、小説に限らず、コラム、思想書(まがいのもの?)、エッセイなど、ほとんどのものには目を通している。
最初の出会いは講談社文庫で読んだ「草の上の朝食/プレーンソング」(この文庫は絶版?)で、これを読んだときにはかなりたまげた。閉塞感があった現代文学に少し光明が差した気さえした、といえば大袈裟だけれど、ほんとにあぁこういう小説と出会えてよかったと心から思ったものだ。

保坂さんの書くものというのは、とにかく「考える」ということを休まない。それは小説でもそうで、小説の主人公はつねに考える。考えることさえ考える、というレベルで、徹底して考える。そんなのに意味あるのか?と問われれば、私たちが生きているそのほとんどのことは本質的に意味はない、というところから考えはじめる。
保坂さんの書くものを読むと、僕はいつも「考える」ことの素敵さを実感する。
ドラッカーが「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。」というようなことを言っているけれども、保坂さんの書くものというのはつねに、「正しい問い」を探すプロセスそのものだったりする。
もちろん「正しい」ということについても、保坂さんなら考えはじめるわけだ。

さて、このカンバセーションピース。
これはもう保坂さんの現時点での集大成的な小説だろうと思う。おそらく保坂さんを知らない人が初めてこの小説を読むと面食らうだろうなとは思うけど、ずーっと保坂さんを読んでた人なら、ここまできちゃったか、と思うところもあるのではないだろうか。
いつものように特にストーリーらしきストーリーもなく、ただひたすら会話と日々のなんでもない情景を通じて「僕」が考えたことを、その考えるプロセスをひたすら克明に記録したような小説だ。エンターテイメント性などという言葉とは正反対に位置する小説だけれども、「考える」といことがこれほどまでにわくわくすることなのか、と感じさせてくれる意味では、実は下手な娯楽小説、大衆小説よりもずっとスリルで面白い。

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