最後の冒険家(石川直樹)
「最後の冒険家 」すごく良い作品だったので紹介したかった。石川直樹さんは写真家としての顔しか知らず、彼の書いたものを読むのはこれが初めてだったのだが、その人物像と違和感ない、とても冷静で淡々とした文章で、すごく共感が持てた。といってもボクが石川直樹さんの人となりを知ってるわけでもなく、以前、NHKで哲学者の入不二基義さんと「考える」ということについて対談していた時の印象がすべてなのだが。その時の印象も淡々と冷静に自分の頭で考えて、自分の言葉を発することが出来る人、という印象だったが文章もまさにそんな感じだ。下手にドラマティックにしょうというわけでもなく、起きたこと、その中で考えたことを対象に近づきすぎず、また遠すぎず、微妙な距離でもって捉えている。冒険家のルポルタージュともなれば、ややもすれば劇的さを際立てることも出来るだろうけれども、彼の文章は、自分自身が死ぬか生きるかの瀬戸際にあるシーンの回想においても、そのトーンを全く変えない。
この本は、熱気球による太平洋横断遠征に挑戦した冒険家神田道夫のルポルタージュだ。
すでに地図の空白がなくなった現在、地理的な冒険や探検といった行為は、時間が経つにつれてどんどん不可能になってきている。ジャーナリストの本多勝一氏は、冒険の条件として「命の危険性」と「行為の主体性」の二つをあげているが、近代の冒険は、その後者が重要なのだ。それはつまり自己表現の問題とも密接に関わってくる。ここでいう表現とは、地図上の誰にもたどったことがない軌跡を描くという意味である。これまでの人類の歩みを俯瞰して、その隙間を見つけ、自分なりの方法で空白を埋めていく行為と言い換えることもできる。(略) 何もハードな辺境の移動だけが冒険ではないことに多くの人が気づくだろう。地理的な冒険が消滅した現代の冒険とは、この世の誰もが経験している生きることそのものだとぼくは思っている。日常における少しの飛躍、小さな挑戦、新しい一歩、そのすべては冒険なのだ。
神田道夫さんの気球による太平洋横断というのもその行為だけを見れば、すでに達成している人たちもいる。しかし、普段は「役場に勤めるサラリーマン」が「自作の気球」で「太平洋を横断」という挑戦には、何か人を惹きつける古きよき時代の「冒険」が持っていた匂いがある。しかも、一部の人たちにしかその冒険の壮大さや難しさがわからないような局所化・マニアック化した「冒険」ではない。「太平洋を気球で横断」だ。誰もが明確にそのイメージを持てる。そんな恐ろしいことによく挑戦するよねという冒険が持つ「死への恐怖」と共に、何だろう、ある種の高揚感というか、わかりやすい冒険のワクワクする感じが漂ってこないだろうか。
このルポルタージュへの興味や関心が最後まで持続する要因の1つも、このわかりやすい「冒険」にあるだろう。しかも、一度目の失敗で十分懲りてるはずなのに、二度目のチャレンジでは、一度目の失敗の反省を活かすどころか、一度目と同じように失敗すれば、それこそ今度こそは命はないぞというような無茶な条件や環境でのチャレンジだ。石川直樹さんももちろんだが、読者の大部分も、おいおい、それは無理ちゃうの、とツッコミを入れたくなるだろう。ゴンドラを籠にしてしまったら太平洋に着水すればもうほぼ助かる見込みはない。しかも、今度は単独飛行だ。何十時間寝ることも許されなければ、高高度での障害で幻覚などに見舞われればそれでもアウト。それでも、神田道夫は計画を立てたら、それをとにかく実行してしまう。どれだけ周りに注意されようが、忠告されようが、彼の中には「成功」のイメージしかない。あまりにもの前向きさと、楽天的な考え方には正直、呆れ返るほどだけれども、それでも、こんな規模の大きい「冒険」に実際にチャレンジするとなれば、やっぱり応援せざるをえなくなる。現代において、こんなに多くの人にわかりやすい夢やロマンを与え、興味を惹きつける「冒険」はほんとに数少なくなってしまっているわけで、その意味で、神田道夫という人は文字通り「最後の冒険家」なのかもしれない。