友だちのうちはどこ?(アッバス・キアロスタミ)
先週は「第二回 午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」で、アッバス・キアロスタミの「友だちのうちはどこ?」を観た。この映画を観るのはもうなんやかんやと20年ぶりぐらいになる。キアロスタミの映画を初めて観たのは大学の頃でこの映画が最初だった。日本での公開が1993年。当時ボクは映画サークルにいたが、この映画はけっこう話題になった。イラン映画自体をほとんど知らなかったということもあり、そのタッチや手法もすごく新鮮に写ったのだ。
ちなみに、wikipediaを見ると「アッバス・キアロスタミ」となっていたが、ボクはずっと「アッバロ・キアロスタミ」だと思っていた。当時は確か「アッバロ・キアロスタミ」というような表記のされ方で紹介されていたと思うのだが…
関係ないが、しかし、Amazonで中古のDVDが2万円超えだ、、、、 確かに大傑作だと思うけれど、うーむ。再販されないんだろうか。このへんの権利関係はよくわからんが、ほんとに人気の素晴らしい作品の多くが廃盤になってて、物凄い値段で中古市場で流通してたりする。コンテンツ自体はどんな形にせよ、流通させられる方法がないだろうか。
ストーリーは極めて単純だ。友達のノートを間違えて持って帰ってきてしまった主人公が、ノートを返しに行くという話だ。それだけなのになんでこんなに面白いのだろうか。こういう映画を見ると、いかに「ストーリー」が映画においてはほんの1要素に過ぎないということがよくわかる。
映画はドキュメンタリータッチで撮られており、その家での生活や親と子の関係、大人と子供などが非常に生々しく描かれる。下手な演出や編集をしない演出が、一層、子供たちや生活、そしてこの映画を成立させる世界のリアリティを生み出す。
是枝さんなんかも同じような手法を使うが、こういうのって一体どうやって撮影してるのか、演出してるのかといつも不思議に思う。自由にやらせておけば、こうなるのか? そんなもんでもあるまい。
この映画で描かれる「大人」はえらく不条理に思えるけれども、これはイランの社会がそういうものなのだろうか。子供が懸命に友達にノートを返しに行かなければならないということを訴えても全く聞く耳を持たない母親や、勝手にノートの1ページを破って去っていく男やら、自ら案内を勝手出て、大丈夫だと言いながら、ほとんど足手まといにしかならない物知りのおじいさん、タバコを持ってるにも関わらずしつけのためと孫にタバコを取りにいかせる祖父。
ノートを届けないと宿題ができなくて友達が退学になってしまうという心配と不安を抱える主人公に対して、そんな主人公の気持ちなどもお構いなしに、子供を取り囲む「大人」たちは皆、勝手で理不尽だ。
この対比が実は絶妙なのだろうと思う。そう、映画を観る人たちも、子供の心配や不安が「たいしたものではない」ということはよくわかっている。そりゃ、子供たちにとっては先生に怒られるというのは一大事なのかもしれない。しかし、たかだが宿題をノートに書いてこないということぐらい「大人」のパースペクティブからしたら取るたらない些細なものだ。だから「大人」には「子供」の不安や心配などはわからない。「大人」は「大人」の世界の価値観で普通に行動しているだけなのだ。しかし、カメラは、そんな大人の「普通」に困り、苦しむ「子供」の表情を淡々と捉える。そこで観る人は気付かされる。自分がこの映画の大人たちと同じような理不尽で、子供の言うことを聞かない、聞けない大人になってしまっているのではないかということに。
余談だけれど、キアロスタミの新作はなんと日本で撮影される。しかも監督以外、キャストも含めてすべて日本人。つまり、これはキアロスタミが撮る「日本映画」だ。タイトルは「THE END」。この映画を作るための資金集めが、motion galleryというサイトで行われていた。目標金額は500万円だったが、無事達成している。
カンヌ映画祭・ベネツィア映画祭を制覇した巨匠キアロスタミが、新作『THE END』を日本で撮る!| motion gallery
もちろん、ボクも妻も大ファンなので、少額だけれどもチケットは購入させてもらった。今から作品の公開が楽しみでならない。