アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」

京都シネマでテオ・アンゲロプロスの追悼特集が組まれてて、「こうのとり、たちずさんで」を観てきた。
ほんと映画館で観れて良かったと思った。アンゲロプスの作品は映画館の大きいスクリーンで観たほうが良いに決まってる。アンゲロプロスぐらい映像の力を強烈に体感させてくれる映画を作る人はそんなにいない。

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テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)

この作品では、「国境」の滑稽さ、「国境」とその周辺、そこに集う人々の哀しさや、異様さが見事に描き出されている。特徴的な長回しのカメラと、シークエンスに戯画っぽさを与える絶妙なコンポジション。鬱蒼感が漂うフィルムの色合い。「映像」の持つ力を最大限使い、観る人に「国境とは何なのか」という大きな謎を提示し、それを考えさせることの巻き込んでいく。

国を分つ河を挟んで繰り広げられる結婚式の模様。こちら側から河川へ続く緩やかな坂道と、そこを行く「結婚式」参列者の人々を捉えながら、カメラはゆっくりと進み、河土手を上ると、そのまま対岸を捉える。対岸からも同じように人々がゆっくりと現れる。
近そうで遠く、緩やかな河の流れと、余裕あるカメラワーク、そして巨大なキャンバスに散らばる戯画化されたような人々の様子。

こうのとり、たちずさんで結婚式


そして、なんといっても圧巻はラストシーン。
国境が画面を一文字横に切る河や、その河をまたぐ一直線の河として描かれるのに対比して、この最後のシーンでは、異様な黄色い作業服に身を包んだ「移民労働者」たちが、垂直に立ち並ぶ電柱をゆっくりと登っていく。このシーンが醸し出す無常観は何なのだろう。これは
なかなか言葉では言い表せないものがある。画面全体から、絶望にまでは行かないが、どうしようもない行き詰まった感じが立ち現れてくるのだ。

こうのとり、たちずさんで


「国境」を仕切る河の「横」(水平)の動きと、国境を隔てる橋(奥行き)、そしてそこに立ち止まり、どうすることもできず、ただ電柱の「上」(垂直)へと向かう移民労働者たち。水平と垂直の運動の見事なコントラスト。しかし電柱には当然ながら行き止まりが来る。どの電柱でもてっぺんでこの先の運動を封じられた滑稽な中ぶらりの人達。壮大なスケールの映像と、そこで描かれるあまりにも滑稽な様が、「国境」というものの幻想性を否応なく突きつけてくる。

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