コーエン兄弟「シリアスマン」のすかしっぷりの面白さ


忘れないうちにメモ。日曜日にコーエン兄弟の「シリアスマン」を観てきた。いやー、またまた傑作ですよ。さすがコーエン兄弟。よくこんな話を映画化したなぁと思う。過去のコーエン兄弟作品のどれとも違うが、しかしやはりこれはまさしくコーエン兄弟独特の少し変な世界だ。過去のコーエン兄弟映画の「ちょっとした変さ」に心ときめく人は、ぜひ観て欲しい。

しかし、この映画の面白さって、なかなか説明は難しい。この映画の中では、何もかもが意味有りげで、さも重大なことのように扱われる。が、それらのことごとくは何も意味がなく、重要でもないのだ。すべてにおいて観る人に肩透かしを食らわすように仕組まれている。普通の人が感覚的に抱いているストーリー技法や映画技法を逆手にとって、ある意味、セオリーを悪用することで壮大な肩透かしを行うのだ。そういう部分では一時期のゴダールをも彷彿させるものがある。

ボクたちは自分の身に振りかかるものを、何か大きなストーリーや因果に結びつけようとしがちだ。その最たるものは、「神が試練を与えている」というような解釈だろう。災難や厄災の多くに何かの神の暗示や、神からの警告みたいなものを感じ取り、そして畏怖の念を抱く。しかし、そんな人間の姿や考えを、おそらく神は「何を勝手な解釈をしているのだ」とせせら笑っているのかもしれない。この映画は、そんな神は人が理解したり考えたりして解るような倫理や論理で何かを施したりしないよ、ということを徹底的に皮肉っている。そして、また、この不条理さ、何の意味もなく何の因果もなく、ただただ不幸が続くというこの主人公の男の姿こそ、むしろ、この世界のあり方、この世界のリアルそのものの姿なのではないか、そんな風に問いかけてるのではないだろうか。

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