園子温監督「ヒミズ」

ヒミズ
あー、これは園子温版の「罪と罰」なのかもな、というのが最初の感想。原作ではそんなことはまったく考えなかったけど。もちろん、実際のところは「罪と罰」とは全然違う。けど、なんだろう。最後のスミダとチャザワさんとの掛け合いが、ラスコーリニコフとソーシャに被って見えてしまう。
ラスコーリニコフが強い選民意識と屈折した倫理観に苛まれる青年なのに対して、スミダくんは正反対だ。自身を特別な存在にしたくないどこにでもいる普通の中学生なのだと思い込もうとしている。しかし、結局、彼の思惑と裏腹に、彼はどんどん特別、特殊・特別な状況へと追い込まれていく。
一方、チャザワさんはスミダくんにボコボコに殴られたり、池に落とされたりと、相当ひどい仕打ちを受けながら、ひたすらつきまとう。序盤、スミダくんは、チャザワさんにとってある種の「救い」の人だからだ。しかし、最後ではその関係は逆転し、スミダがチャザワさんに赦される形になる。チャザワさんのこの大きい愛がスミダの心を開かせるのか。なんとなく、ソーニャっぽく感じるのはこのあたりか。

(以下、ネタバレあるので観る予定の人は読まないほうがいいよ)

「恋の罪」とか「冷たい熱帯魚」でもそうだったけど、園子温という人の映画には、ほんとに「雨」がよく出てくる。しかも、かなりねちっこい生理にじわっと来るような嫌な感じの「雨」だ。身体にまとわりついてベタつく雨。本作でも嫌というほど雨のシーンが登場する。全編通じて雨に濡れ、泥のまみれてる印象だ。
文学にせよ、映画にせよ、雨とか嵐とかは、よく「再生」とか「刷新」とかの象徴として使われることが多い。そういう物語装置についての種明かし的なものには僕はまったく興味はないのだけれど、ストーリー構成、雨や嵐によって物語や登場人物に大きい変化がもたらされるというのは、よくある手法だ。しかし、園子温の「雨」は、そういう「再生」や「刷新」の装置というよりも、ひたすら登場人物たちの身体や精神をいじめていく「気持ち悪い」ものとして描かれる。雨や泥は抑圧そのものを現しているかのようだ。だから、劇中、スミダくんにせよ、チャザワさんにせよ、何度も何度も雨に濡れ、泥にまみれる。象徴的なのは、スミダくんが父親を殺してしまうシーンだろう。泥まみれになりながら、スミダくんは父親を泥の中に埋める。そして、スミダくんは身体についたその泥をしばらく落とそうとしない。実際、泥が落ちた後でも、泥の代わりに絵の具を全身に塗りたくり、彼の言う「世直し」徘徊に出かける。泥や絵の具はスミダくんの心を表現しているといえばベタすぎる解釈だろうか? しかし、最後には、チャザワさんに赦されたスミダくんはすべてを洗い流すかのように、川に一歩一歩足を進めていく。スミダが何かを洗い落としたかのように川から戻ってくるからこそ、一瞬の開放感が生まれるし、そこに微かな希望が見えるのではないか。

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