カズオイシグロ「わたしを離さないで」

久々に「日の名残り」を読んだら(カズオイシグロ「日の名残り」 | papativa.jp)、物凄く面白かったので、続けて「わたしを離さないで」を読んでみた。こちらは初読。

わたしを離さないで
わたしを離さないで

しかし、この安定感は何なんだろうか。凄まじい完成度というか。どこを切っても、どこを読んでも文句の付けどころがない。緻密な構成と、練りに練られた文章、そして他愛もないエピソードを実に鮮やかに面白く描いてしまうその力量。これぞ小説、これぞ小説の楽しさ。自信を持って、この小説は面白いと他人に薦められる安定感がある。でもかといって保守的、古典的な小説かというと、そういうわけでもない。小説としては十分にアグレッシブだと思うのだけど、でも、カズオイシグロの手にかかると、あまりにも巧すぎて、どんな作法でも、熟成したものに見えてしまうから不思議だ。

「日の名残り」でもそうだけれど、カズオ・イシグロの得意技の一つが、物語の語り手の不確かな記憶や、語り手の思い込み、語り手から見ている世界の歪み、みたいなものを自然に小説の重要な要素として取り入れることだ。Wikipediaによると「一人称視点によるバイアスを巧妙に利用した」というような言葉で表現されている。そう、まさにバイアスを「巧妙に利用」している。

本作においては、まず状況や設定が読み手にはよくわからない。主人公である物語の語り手は当然、この世界に住み、暮らしていて、小説内の世界や環境を当たり前の世界として捉えている。そして、こちら側にもそういった知識があるという前提で物語を語る。
しかし、読み手にとっては、ほとんどのことがよくわからない。謎だ。物語を基礎付ける前提とか社会の仕組みとか、この世界の規範とか、そういったものがほぼ謎のまま物語は進んでいく。そして、読み進めていくうちに、物語の種々断片や、挿話、登場人物たちの会話や、語り手の吐露といったものから、徐々に舞台設定や、環境やらといったものが輪郭を見せてくる。このあたりは一種の上質な推理小説やミステリーを読む時の感覚にも近いだろうか。しかも、一人称視点から捉えられた事象や出来事なので、読み手自身も、この描写やこのシークエンスそのものに語り手の主観的な偏りや、認識のズレがあるのだろう、ということを否応なく意識させられる。

結果的には、すべてが明らかになるのは、かなりの終盤なのだが、しかし、よくここまでこの特殊な状況や設定を謎としたまま、それでもなお物語の興味を損ねずに読者を引っ張っていけるなぁと、本当に感心してしまう。
環境や状況がよくわからないのにも関わらず、そこで繰り広げられる人間関係、人間模様や、些細な出来事、その出来事が起因する感情の揺れ動きや機微みたいなものが、とても丁寧に描かれていて、それらの積み重ねが、読者の興味や関心を決して切らすことなく、物語に引込んでいくのだ。

なるほど、wikipediaのカズオイシグロの項を読んでいると、

谷崎潤一郎など多少の影響を与えた日本人作家はいるものの、むしろ小津安二郎や成瀬巳喜男などの日本映画により強く影響されているとイシグロは語っている。

とのことらしい。

そうだ。なるほど。確かに小津の映画が持つ、ありきたりの人間模様や、些細な出来事への人々の反応やその振る舞いみたいなものは、決して大げさなドラマでもなければ事件でもないけれども、でも、その細部の積み重ねが圧倒的に面白い。カズオイシグロの小説が持つ面白いさとどこか似ているところを感じる。

ストーリーを語ってしまうことが、そのままこの小説の重要な謎を暴露してしまうことになるので、安易はストーリーを語らないが、興味を持たれた方はぜひ一読をオススメする。決して、文学的模範的優等生というわけではなく、かなり挑戦的な作品でもあると思うのだけれど、でもこの作品は、そういう実験性や挑戦を超えて、文学として極めて高い完成度と安定感を宿してると思う。

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