三島賞受賞作「私のいない高校」の面白さ

4062170086妻が友達から、最近久々にこれはという小説家に出会ったということで、教えてもらったのが青木淳吾だった。 先に読みたかったのは、デビュー作の「四十日と四十夜のメルヘン (新潮文庫) 」こっちの方だったのだけど、「おおかみこどもの雨と雪」を観に行った時に本屋に立ち寄ったら三島賞受賞作のこちら(「私のいない高校 」 )があったのでハードカバーなので少し躊躇ったのだけど買ってしまった。

青木淳吾については、事前情報ほとんどなく、この作品についての知識も何もないままに読み始めたのだけど、読み始めて直ぐに「あー、これは…」と多少の驚きと嫉妬の入り交じったなんとも複雑な気分になった。なんで嫉妬してしまうのかも自分でも意味がわからないけど、まぁ、こういう実験的な小説で面白いものを作れてしまう若い才能というものに単純に焦がれてるということなんだろうと思う。

タイトル通り、この小説には「私」=主人公が存在しない。主人公が存在しないということは、即ち、小説の作法とでも言うべき、主人公を中心として形成される「物語」が存在しないということだ。主人公が存在しないとか、ストーリーが存在しないとか、そのことばかりに注目されてしまいがちだけど、そもそもこういうことが驚きとして受け止められてしまうこと自体が、小説には固定観念や重力みたいなものがまとわりついてしまってて、あたかも常識のようにはびこってるんだということの証明になっているのかもしれない。 ただ、主人公が存在しない、物語が存在しないって形式的なところばかりに目が向いてしまいそうだけども、この小説の素晴らしさというのは、そういうものがなくても、小説は十分に面白くなるということを証明してみせたことなんじゃないかと思う。 この面白さというのを伝えるのは、相当難しい。小説をどれだけ分解していったところで何か面白さの要素が取り出せるわけでもない。 この小説の面白さを少しでも味わってもらいたいので、少し引用してみる。

 このまま夏に向けて学習ペースを落とさずにテキストを進めて漢字を覚えていく考えだった。さらに理科や社会の単位が必要だと分かってからは他教員が留学生を個別指導する機会も増えていた。副担任というわけでもないが、元教え子の上原里菜先生には常日頃からサポートしてもらった。思い起こせば彼女は三年生の時に受け持った生徒で、卒業から何年もしないうちに進学先の大学から教育実習のため学校に戻ってきた。しかもこの過去の教師と教え子とが今では職員室で隣り合わせの席に座った。そんなところにも人の縁の不思議さが感じ取られた。  日本語は夏休みまでにできるだけ先に進めておき、休みの間はそれらを自分で復習して基礎固めすることが重要だった。自宅で授業を再現できるよう教師用の指導手引き書をホストファミリーに預けてさえいた。夏休み中にも個別指導の機会はあり、七月後半には演劇部の日本平合宿に二人で特別参加したし、八月には全校登校日や学年登校日以外に個人レッスンのための登校日があった。


実は、この引用箇所というのも、とりたてて目に止まったとか、すごく重要そうに思えたとか、一番面白く感じたとか、そういうことで引用してきたところでもない。ぱらぱらとページをめくって適当なところで抜き出しただけだ。
そんな風に適当に抜き出したところでもこの小説は十分に面白いのだ。それは、この小説全体を貫くこのリズムやらトーンやら語り口やら、そしてこの平々凡々な日常光景と、なんとも典型的反応・感情を示すキャラクターたちというすべてが一体になってて面白い味が滲み出てるからなんだろうと思う。

上記文章の冒頭は、その前の文章からの流れから主語は「留学生」ということになる。留学生は「このまま夏に向けて〜漢字を覚えていく考えだった」ということなんだけど、次の文章では「他教員が留学生を個別指導する機会も増えていた」ということで、「留学生」を取り囲む環境が語られ、元教え子の上原先生に「サポートしてもらった」となるのだけれど、この「サポートしてもらった」という受け身が「留学生」にかかっているのか、状況を語ってるのか、はたまた「担任」にかかってるのかがが曖昧になっている。なんかルート音を外したコードボイジングで、どっちつかずのコードを挟むみたいな感じが続く。さらに「思い起こせば彼女は〜」と、思い起こしてる主体は「担任」になる三人称主観みたいな文章が登場するので、それまでの文章がすべて「担任」主体だったのかと一瞬思うのだけど、どうもそういうわけでもなさそう。さっきのパターンと同じように、「しかもこの過去の教師と教え子とが今では〜」と、第三者視点から「先生」と「教え子」の状況が語られる。

適当にピックアップしたところであっても、こんな具合だ。普通にさらりと読めば、そんなに違和感なくも読めてしまうのだけど、よくよく読んでいくと、文章1文1文で主体がしれっと移動してたり、誰が主体なのかが曖昧になっててどっちとでも読めるようになったりと、どうも他の小説との違いというか、なんか違和感(引っかかり)みたいなものを作り出してる。 僕が読んでて物凄く楽しかったのは、こういう文章そのものの面白さだった。でも、こういう面白さってのは、その文章をそのままで味わってもらう以外に別の言葉では伝えようもない。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です