自意識をめぐる群像劇 – 朝井リョウ「何者」
何者
この著者が一番気になっているのは、多分、自分も含めた人々、特に若者たちの自意識なんだろう。それを単に、自意識過剰な人達、─所謂、昔っからそういう人間は「嫌な奴」と決まってるわけだけど、そういう「嫌な部分」を明るみに出すのではなくて、「自意識過剰な人達」のことを揶揄したり、批判したりしている人達の「自意識過剰」さみたいなものも含めて扱うってところにこの人の作品の面白さがあるのだろうと思う。
だいたい自意識過剰な人達とか、自分はこういう人間で、みたいなことを自分で主張したり定義したりする人ってのは、コミュニティの中では嫌われる。これは今も昔もそうなんだろうけど、昔は自分を表現する手段が話をするとかしかなかったものが、ソーシャルメディアの普及のせいで、誰にも話かけたり、主張したりもしてないけど、自身を演出することができるようになってしまった。そのせいで、一見過剰な自意識は直接的なコミュニティでは見えにくくなってしまったのかもしれないけど、しかし、昔よりより一層巧妙で、且つ厄介な自意識を巡る駆け引きが行われるようになってるってのがあるんだろう。
そして、そういう「自意識」を巡るコミュニティでの駆け引きや葛藤はいたるところであるのだけれど、傍から見たら、そんな小さい世界であーだこーだと言ってても、お前らは別に「何者」でもないよ、という嘲笑が投げかけられるという構図。それが、この小説のタイトルに象徴的に現れてるんだろうと思う。
小説の冒頭で、いきなり登場人物のTwitterのプロフィールが示される。これだけでもちょっと吹き出しそうになる。
もうこの瞬間から、どこかで見たことあるなーという風景のオンパレードが始まる。
大学生たちの就職活動を舞台として、ソーシャルメディアなどが効果的に用いられながら、若者達の自意識を巡る「駆け引き」が非常にうまく描かれる。特に、時折挟み込まれるTwitter上でのつぶやきと、現実とのギャップや、現実を「物語」に置き換えて演出してしまう人達の姿。
宮本隆良 @takayoshi_miyamoto 2日前
彼女のシューカツ仲間がウチにて会議中。就活なんて想像したこともなかったから、ある意味、興味深い(笑)。そんな彼女たちを横目に、買ってきた「思想を渡り歩く」を読み進める。ゼロ年代文化の転換期(変革期といってもいい)についてのコラム集。とっても興味深い。instagram…..
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こんなツイートを投げる「宮本」は、皆で一斉に就職活動にいそしむ学生たちに批判の目を向けている。自分は就職活動や就職なんてものには向かないと言い、自分は「その他、大勢」とは違うんだ、という過剰な自意識を持っている。「思想を渡り歩く」を読み進める、とつぶやいているけれど、まだ読み始めたばかりだったりする。
自分は特別だという選民意識みたいなものを持ってはいるけれど、それを過剰に押し付けたり、アピールするのではなく、こういうツイートの端々にアカデミズムの匂いを醸し出したりする。ありがちな光景だ。
RICA KOBAYAKAWA @rika_0927 5分前
みんなといっぱい喋って、いっぱい吸収して、今日も良い一日だったなあ。つくづく思うけど、私はホントに人に恵まれてる。今まで出会った人すべてに感謝。ありがとう、これからもよろしくね。お酒を飲んで真夜中散歩してたら、こんならしくないことを言いたい気分になっちゃった(笑)
宮本の彼女のツイートもまたまた痛い。皆で一緒の場にいるのに、いつの間にかその中の一人はこんなツイートをしてたり。
何かにつけて過剰に「感謝」したり、ありがとうを伝えたりする。何かを伝えたいのではない。ただ、そういう風に「感じてる」「考えいる」という自分を演出したい、周りからそう思われたいという自意識の現れだ。
こんな具合に、TwitterやFacebook、ブログなどをやっている人の多くが、この小説を読むと、「あー、いるいる」という感想を持つだろう。そして、同時に、自分もここに登場してる人物たちのように、自身がどう見られるかに過剰に反応しながら、それらの反応している自分も気付かれないように配慮してたりしてるんじゃないかと、ドキッとする人も多いのではないだろうか。
そして、読み進めてるうちに、おそらく多くの人が「二宮拓人」視点と自身の世界を繋いで、小説内に描かれる典型的な「痛い」人物たちを、自身の周りにいる「誰か」(あるいは自分)に重ね合わせてしまうだろう。
しかし、それが作者の罠だ。
どんでん返しというほどでもないが、この罠にひっかかってしまうと、最後に痛いところをつかれたなーという感じになるだろう。そういう人達の「痛さ」や過剰な自意識に批判的、嘲笑的な目を向けてる自身=二宮の特権性こそが、一番「いやらしい」んじゃないかと、突きつけられるわけだけど、それは確かにその通りだとは思う。
しかし、なんというか、この手のポジションの取り合いとか意識の駆け引きって、結局、どんどんメタレベルに上がっていくだけというか、どこまでいっても「一つ前」を括弧にいれて批判しないと、みたいなところで延々と続きそうで、個人的にはあまり好きではない。