森達也「オカルト」

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オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ

タイトルそのまま「オカルト」と呼ばれる現象全般についてのルポルタージュだ。
「オカルト」を扱う場合ってのは、ほとんどの場合、それを妄信的に信じて疑わない肯定的立場から書かれるか、科学的な見地から「ありえない」「起こりえない」という前提で徹底的にメスを入れていくような否定的立場からか、いずれにせよかなり極端な視座から語られるものが多いと思う。言説自体が極端なものではなくても、どうしても二項対立がまずあり、そのいずれかの立場に立つかということがまず重要だったりする。典型的なのはTVタックルでのオカルト肯定陣営韮澤、秋山さん対大槻教授、大竹まことみたいな構図だ。

しかし、本書内では、著者は極端な立場をできる限り避けながら、超能力、占い、UFO、イタコ、幽霊、心霊スポット、ダウジング、臨死体験、メンタリズム… 一つ一つの現象や能力などについて、疑問の目を向けつつ受け止め考えていく。それは「解明」という行為ではない。そもそも「オカルト」とは何なのか、「オカルト」の存在理由そのものが何なのかという本質を考える行為だ。

オカルト分野において、「わからない」という立場は、ほとんどの場合、否定的な立場と見なされる。それは、否定的立場が「科学」というものを背景にすることが多く、「科学」においては「ある/なし」を極端に突き詰めなければ、それは科学ではない、という性質を持っているからなのだが、「オカルト」を科学で解明しようとすることが、そもそもどうなのだろうか?

本書では、「科学」の極端さについても疑問を呈する。たとえば、超能力。スプーン曲げや透視は、あくまでも人がやることだ。スポーツでも体調や気分の良し悪しが成績や結果に影響を与えることは多々ある。凄い記録を出すアスリートが、毎回凄い記録を出せるわけでもない。超能力も、それが人の能力として捉えるならば、その時の感情や環境、状況が結果に影響を与えることは十分あるだろう。しかし、昔から、超能力の存在可否の調査は、科学的見地から行われ、それが何時何時、どんな状況であっても発揮できる能力でなければいけないという前提がある。再現性が確実でなければ、超能力は「嘘」だというレッテルが貼られる。
そもそもそういう観点は間違いではないのか。
また、科学的見地のほとんどが、ニュートン力学に代表される古典物理学を基準としている点についても同様だ。もちろんだからといって、量子力学的なレトリックをオカルトに安易に適応して辻褄をあわせてしまうこともどうかと著者は疑問を呈するが、しかし、古典物理学だけを基準に「絶対性」を宣言することなど出来るのかどうか?

こういう疑問を積み重ねながら、著者の「わからない」は続いていく。絶対否定論者から見れば、この「わからない」さえも、肯定論であり、現実的ではないとはなるのだろうが、しかし、どれだけ科学が発達しようが、メディアの技術が発展しようが、「わからない」ということがずっと残り続ける、人類の歴史とともにオカルトの解明はほとんど進化も発展もしない。そもそもオカルトとはそういうものなのではないか。「解明」とか「分(解)かる」とかと、オカルトは対局にあるものではなく、オカルトのレゾンデートルが不確実で曖昧でわからないものなのではないか。

(脱線するが、ボクは、一時期の上岡龍太郎が「オカルト」的なものに対して徹底して解明しようとしてた一連のテレビ番組での取り組みが凄く好きだ。今でもYouTubeなどでよく見る。上岡龍太郎は、証明してくれれば信じますよ、というようなことを言いながら、基本的には完全否定の立場から、占い師や霊媒師やらと徹底対決する。彼が正しいか間違ってるか云々は置いておくとして、彼がオカルトに対してそういう立場を取るのは、オカルトを商売にしている連中と、その商売によって生み出されてる不幸や悲しみ、それに対してあまりも無自覚な当事者や、マスコミすべてへの批判からスタートしているからだ。その部分については、ボクも全面的に支持している。オウム事件も、「オカルト」への無盲目的な傾倒があったからだろうし。そう、安易な「オカルト」妄信がどれほど危険かというのは、しっかり心にとどめておかなければならない。)

本書の最大のテーマは、なぜ、オカルトは、これ見よがしに現れるのに、こちらが見ようとすると隠れ、でも完全に消えたりせず、少しだけ痕跡を残したりするのか? ということだ。オカルトにはこれが本当に多い。写真に幽霊みたいなものが映る。その写真を机の中やアルバムでちゃんと補完してたはずなのに、いつの間にか消えてしまう。ベランダからUFOを目撃する。それは明らかにUFOだ(って明らかなUFOってのも変な文章だけど。)。これはとカメラを取りに部屋に戻り、ベランダに戻った時にはその痕跡はどこにもない。TV番組で心霊スポットなどの取材をすれば、たいてい機材が壊れたり、なぜか肝心なところで音声が録音されてなかったりという現象が起きて、その場では聞こえた音が入らなかったり、映っていそうなシーンがノイズでかき消されてしまったり。

オカルトは、唐突に現れ驚かせ、その存在をアピールするのに、客観的な証拠になりそうなものへの痕跡は残さない。残してもそれはいつの間にか消えてしまったり喪失したり。オカルトの怪しさというのは、こういった「見え隠れ現象」があるからではないか。見せたいのか、隠したいのかがわからない。UFOみたいな高度な技術があるなら、一目に触れなくても調査なんてできるはずだろうし、逆に、それができないならできないで、もっと一目に触れるだろうとか。

この謎に対して、本書で何かの断定的な答えが提示されるわけではない。ただ、著者は、「見え隠れ現象」を、相手の問題ではなく、知覚する側、こちら側の問題なのではないか、という疑問を持つ。オカルトへの忌避や社会規範的なものが、このような現象を引き起こしてしまうのではないか。著者を含む何人かの研究者やスタッフたちは議論を交わす。いくら議論を重ねたところで何かが解明されるわけでもない。

吐息をついた岸川が、「何でいつもいつも、隔靴掻痒なんでしょう」とひとりごとのようにつぶやいた。
「なぜなら意識作用物理現象となじめないからです」
間髪を容れずに答えた石川に、僕は視線を向けた。
「研究しながら石川さんは、何でここまで徹底して曖昧なんだよとは思いませんか」
「頻繁にありますよ」
「たまには白黒ちゃんとつけてくれよって思ったりしますか」
「それは人格に対して使うフレーズですね。まあでも、研究していれば浅い現象はよく起きますからね」
浅い現象? と首をひねる僕に蛭川は、「ごく普通の科学研究の現場でも、あるときフッとものすごくきれないデータが出ることがあります。でも再現できない。あるいは特定の誰かが実験するといい結果がでるんだけど、批判的な誰かが追試しようとするとうまくいかないとか。そういう浅い現象は、特に心理学の研究現場で頻繁にありますよ」と説明した。
「このジャンルと自然科学との対立は大きな問題です。でも心理的な現象はとても弱い現象でもあるわけで、今の自然科学はこの弱い現象にアプローチする方法をまだ獲得できてないということはいえると思います」
「弱い力と断定していいんですか」
「強かったらもう決着がついているはずですから」
「力が存在しないとは考えないのですか」
「グレイだけど、あるほうに賭けるというか。・・・・あるとすれば貴重な研究対象ですから、ここで結論はだしたくないという心情です」


石川とは、石川幹人のこと。東京工業大学理学部応用物理学科を卒業後、松下電器産業のマルチメディアシステム研究所に入所。その後、明治大学文学部で、2004年、情報コミュニケーション学部教授。2012年より同学部長。認知心理学や科学社会学などのアプローチ手法を駆使しながら超心理学というジャンルに挑む研究者の一人だ。
そんな彼が「オカルト」を意識作用物理現象、心理的な現象として捉えつつ、これらにアプローチする方法を今までの自然科学はつかめていない、ということを言っている。そして存在するかどうかはわからないけど、「あるほうに賭け」つつ、ここでは「結論はだしたくない」と言う。もしかしたら、「オカルト」という存在そのもの、そこに関わるすべての人達は、解明したいという衝動を持ちながら、それに白黒付いてしまったら面白くないじゃないか、という気持ちが少なからずあるのかもしれない。そういう心理や心情を引き出すものが「オカルト」というものなのかもしれない。

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